いつまでも子どもでいるために

いつまでも子どもでいるためになどと言うと、語弊を生みそうな感じがしてしまいますし、あくまで「いつまでも冒険野郎な37歳半くらいの人」が目指している「童心も忘れてないぜ系等々、そういう路線でモテよう」というものとは全く異なるため誤解は避けたいところです。

が、先日「劇画・オバQ」を再読したところ、思わず10回くらい読んでしまうことになったので「いつまでも子どもでいるために」という点について触れていきましょう。

「劇画・オバQ」の内容については特に触れませんが、ふと「そうか、僕は正ちゃんにならず、Q太郎でいるために大人になったのか」ということを思ってしまいました。

と、その前に体育会系のジャンプ派が藤子不二雄作品やコロコロコミックをバカにする理由について触れておきましょう。

体育会系のジャンプ派が藤子不二雄作品をバカにする理由

その後オバケのQ太郎を観てみましたが、正ちゃんが跳び箱を跳ぶ時に透明になったQ太郎が手助けをしてくれてうまく跳べるシーンを見た時、

「これがジャンプ派が藤子不二雄作品やコロコロコミックを否定する要素なのだろう」ということを思ったりしました。

すなわち、スラムダンクに影響を受けてバスケットボールを始めた体育会系が、ドリブルをしながら「お前まだドラえもんなんか読んでんの?」などとキザっぽく言ってくる背景にある「抵抗感」は、藤子不二雄作品のこういうところにあるのだ、と思ったということです(毎度になりますが、ジャンプが嫌いなわけではないのであしからず)。

性に合わない」や「見渡せば秋冬生まれの文化系」などなどでさんざん触れていますが、ジャンプ派で体育会系の人たちは、小学校高学年から中学生くらいになると、悉く藤子不二雄作品やコロコロコミックをバカにしてきます。

その理由としては、「せっかく自分たちは運動神経でモテようとしているのに」という点があるということです。

せっかく自分たちは運動神経の良さでモテようとしているのに、ドラえもんやオバQが手助けして自分たちの優位性が侵害されては困るという点に尽きるのではないでしょうか。

まんが道に出てくる初期作品などを見返すと、その頃から大長編ドラえもんに至るまで、やはり藤子不二雄作品の背景には、「身体面ではガキ大将や大人たちに勝てない秋冬生まれの文化系が、知恵や技術や友情的結束によってうまく状況を切り開く」という要素がふんだんに含まれていたりします。

そういう一種の戦略的な感じが「力があり力を軸に置く体育会系ジャンプ派」には敵対的に映るのでしょう。つまり、社会における覇権や異性の取り合いなどの様々なシーンにおいて、敵対勢力の戦略に見えてしまうという感じが背景にあるのではないか、ということを思いました。

一応弱い存在である正ちゃんやのび太くんが、オバQやドラえもんと一緒にいることでいろいろと断念しそうなことを叶えていくというところが、文化系には夢に映り、体育会系には「俺たちの実力が否定されてしまう」というふうに映るのでしょう。

「せっかく自分たちは体力をつけて練習して、跳び箱を跳べるように頑張ったのに透明になったオバQが手助けして喝采を浴びるなんて許せない」

ということです。しかしそう思う人に限って、自分たちが時期的に学年の最初の方に生まれ、発育的に有利であるという点は棚上げしていたりします。そうした点は、環境的に恵まれていたということを棚上げして「自分は努力で勝ち上がった」と自身の社会的ポジションに自惚れている感じに共通しています。

子どもでいるために強くなる

というようなことを勘案して「劇画・オバQ」の方に戻り考えてみると、やはり僕自身は「大人になった正ちゃん」のようにならないために、また、Q太郎でいるために、一騎当千の強者になろうとしたのでしょう、ということを思ったりします。

つまり、子どもでいるために大人を凌ぐ大人にならなければならないという目線で社会的スキルをつけたに過ぎないという感じになります。

「やりたいことにまっしぐら」という童心を保ち「家庭を気にして脱サラができない」という現象を回避するには、よほどの能天気か余裕で起業できるかのいずれかしかありません。

「年中腹痛の危険が迫っていたほどの臆病さ」が根底にある僕は、能天気側にはなろうと思ってもなれませんし、後者を目指す他なかったということになります。

「童心を保つ事のできる環境」という点に関しては、その他、根本的に投資収入がある等々、資産家であるというパターンもありますが、それはそれでまた何か違うような気もします。少なくとも自分の環境ではそれは違う感じだったので、「どんな大人的な問題が生じても、問題が問題とはならない」という感じにならざるを得ないという感じだったのでしょう。それにそれが単に相続したものであるなら、「もし資産が無くなった場合」における本質的な恐怖心は消えないので、それはそれで違うという感じになります。

「どうせ口先だけだ」という感じでもなく、自然に「別に稼ぎ口くらい、いくらでも創出できる」ということになると、基本的にはオバQ的でいることができます。何かしら問題が起こった時だけ大人モードですぐに対処すれば良いだけの話ですから、基本的には子どもでいることができる、というよりも素でいることができます。

まあ毎度のことながらの登場ですが、憂いなく忍者ハットリくんポーチを使うことができるという点がその代表例でしょう。

忍者ハットリくんポーチ

忍者ハットリくんポーチ

例えば、中途半端な大人となってしまった場合、この忍者ハットリくんポーチを使いたいのに「こんな物を使っていては、取引先にバカにされたり、不謹慎だと叱られて、万が一取引がうまくいかなかったらどうしよう」とか「バカにされて交渉で不利になったらどうしよう」ということが頭を掠め、使えなくなっていたかもしれません。

しかし、一応そうしたことを「考えられる」上に、「本当に気にしていない」というのは僕が望んだ大人像であり、ある意味で夢が叶っているということになります。

というわけなので、取引先において「あこがれのハンバーガーでござる」とつぶやきながら目薬を点すという感じです。

かつて体育会系スラムダンカーに

「お前まだドラえもんなんか読んでんの?」

と言われましたが

「現役で読んでるよ」と自信を持って答えます。

自分だけがQ太郎

ただ、そうなると「劇画・オバQ」にちなむならば「自分だけがQ太郎」という事になってしまいます(いちおうハカセもその気配はありますが)。

となると、自分だけが子どもで「実質的に友達がいない」ということになってしまいます。

ということを思うと少し残念な気持ちになりました。なので10回も読んでしまったのでしょう。

まあ確かに最近では訪ねてくる友人についても、どちらかというと相談にやってくる、弱った時にやってくるという感じが強いので、小学生レベルの遊び感は少なくなっているような気がします。

ということを考えると、「フリーターから上場企業へ」等々の自分の行動の動機の奥には、「友達を友達にしたい」という感じが含まれていたのではないか、ということを思ったりもします。

普通にいくと友達は「劇画・オバQ」における「正ちゃん」になってしまいます。

なので、「劇画・オバQ」におけるQ太郎のような気持ちになりたくないというような動機から手助けをしていたという部分が結構な比重であるような気がしました。

端的には、友達にも子どもでいて欲しいという願いのようなものになるでしょう。

といっても、現役でお互いに家庭や仕事や立場を気にせずに深夜の公園に入り浸ることもありますから、一応ある程度は叶っているような気がしたりもします。

自然な形で「店に入れても入らない、酒は飲めても飲まない」という感じなので、やはりある程度は叶っていることになるでしょう。

マイラッキーアイテム

さて、余談ですが、マイラッキーアイテムについて触れておきましょう。

個人的に使いたいから使っているというだけなのですが、愛用している「藤子・F・不二雄キャラがいっぱいのトートバッグ」を持っていると、何かと良いことがたくさん起こります。

それは「ポテトを多めに入れてもらえる」等々、ほんの些細なことなのですが、人受けがすごく良くなる傾向にあります。

有料であるはずのレジ袋をタダでつけてくれたり(自分の前にいたお客はその分を支払っていました)、グラム売りの惣菜を多めに入れてもらえたりと、その程度ですが、まさにリアルマイラッキーアイテムということになっています。

以前、地元の役所に行ったときには、職員の方に「いいかばんですね。私も好きなんですよ」と言われ、役所で藤子・F・不二雄作品の話をすることになったりもしました。

ということで、その場で「本来通常1週間かかる」と言われていた手続きが翌日には完了しており、電話まで頂いたという感じになりました。

全員が全員とは思いませんが、

「なんだ、みんな好きなんじゃないか」

と思ってしまったりもします。

「ならば、どうしてそれがありふれていないのか」ということを思ってしまったりします。

そうなると、「ははん。『自分の強みが否定される』と、藤子不二雄作品に抵抗のある脳筋体育会系が『けしからん』と抑制しているんだな」と思ったりもするわけです。

至高の芸術

Category:miscellaneous notes 雑記

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