まだ十分ではない!

ある事柄を証明するのは、まだ十分なことではない。人はまたさらに人間を誘惑してそれをさせたり、人間をそこに高めたりしなければならない。それゆえ知識のある者は、その知恵を語ることを― しかもしばしばそれが愚かなもののように聞こえるほど― 学ぶべきである! 曙光 330

学んでも学んでも、まだまだいくらでも学べるものはあります。

しかしながら、大抵のことは学んでも仕方ないようなことです。いつか何かの役に立つことはありますが、遠く離れた妄想の先にあるような事柄よりも、主要な事柄に集中したほうがいいのは当然です。

「学ぶことはいいことだ」

と一元化して、何でも「学んでいるから」という理由で、全てが免責されるということはありません。

社員研修などでは、「この点を重点的に学んでください」と会社などから、しかも会社の負担でやっていますから、それはそれで構いません。

しかし、最近横行している資格ビジネスのように、学んでも仕方ないようなことを学んでも本当に仕方ありません。その勉強した内容で、何か事業をしようとしていても、もしかしたらお客になっているだけかもしれません。

お金を払って学ぶということは、責任のようなものが無いのである種のストレスはありませんが、学ぼうと思えばどこで何をしていても学ぶことはできます。

それがバイトであれ、家事であれ、ただの散歩であれ、学べる要素、気付ける要素はたくさん転がっています。

スマートフォンの害

近年、スマートフォンが普及して、ブルーライトが目に悪い、支える小指が変形するなど、様々な問題が囁かれています。確かに目がドライアイになったり、指の疲労の蓄積や巻き肩の影響から体がおかしくなったりするという害があります(こめかみのしこりを揉みほぐし、くじけかける心を、はげましながら)。

が、そんなことは些細な事です。

「歩きスマホが危険だ」

という事を言いたいのですが、交通の邪魔になるというのはさておき、最も危険なのは、集中力の低下です。

どういう意味での危険か。

その一つは

「スマートフォンでやっていること、得ている情報がしょうもない」

です。

電車の中でスマートフォンを使って情報を得る、情報を処理するというのはいいですが、見ている内容がしょうもない、やっていることがくだらない、ということです。

スマートフォンによる意識の浪費、神経の浪費

ビジネス的な会話もあるでしょう、予定の段取りもあるでしょう、しかしそれ以上に、時間だけでなく意識の浪費、神経の浪費がすさまじい事になっていると思います(人間を咀嚼する大地の口)。

どうして知っているか。

A 覗き見しているからです。

それより何より、スマートフォンに集中するあまり、せっかく目の前に転がっている「リアルな情報」を見逃しているということです。

携帯電話が普及して、特に高校生くらいの時にiモードなどが出だした時からほとんど変わっていませんが、無意識的に携帯電話に意識・集中力を奪われているはずです。

以前、大阪で置き引きに遭った時に、財布がない状態で気付いた時と同じような感覚です。

何かを所有すればするほど、意識が少しずつ奪われている、という感覚です。

特に発信受信ができる媒体はそうでしょう。常時接続されている状態というものは、それ自体で意識が慢性的に奪われるということになりかねません。

使用する局面を絞る

もう既にスマートフォンは使っていませんが、もし使うなら、使う局面を確実に定めておくに越したことはないと思っています。

なるべく意識しないように努めて

と言っても個人的にはもう一生スマートフォンを買う気はありません(iPhoneから普通の携帯電話へ)。

持っているiPhoneは、iPod代わりに使うことはありますが、データ通信を契約することはありません。

もしこの世から普通の携帯電話が無くなった時、つまりスマートフォンしか売らないという時代になったとしたら、もう携帯電話そのものを持たないでしょう。

まだ十分ではない!曙光 330

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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