賞賛の効果

ある人たちは、大きな賞賛によってはにかみ、他の人たちは、あつかましくなる。 曙光 525

誉めることは素晴らしいと語られていることがありますが、僕は誉められて喜んでいる人を見ると、冷めた目で見てしまう癖があります。

本気で反応しているのではないという場合ではそんなこともないですが、誉められて喜んでいる人を見ると、「かわいそうだなぁ」と憐れみの気持ちで見てしまいます。

結局は他人からの評価で生きているということですから。

賞賛を真に受けると相手の力、影響力を認めることになる

こうした「賞賛」にしろ「何かしらの評価」にしろ、相手からの評価を真に受けるということは、相手の力を肯定し、自分への影響力を認めることにもなるという構造が潜んでいます。

曙光の中で「ある人たちは、大きな賞賛によってはにかみ、他の人たちは、あつかましくなる」とニーチェが言うように、誉められてあつかましくなる人もいます。

一方、デーモン小暮氏などは「歌上手いですね」と言われても「歌手だからな」と返しているとか何とかで、そんな人こそプロだなぁと思います。

権威ある賞の受取を拒否

賞賛を真に受けるということは、相手の力、影響力を認めることになる、ということで、実際面白いことに世界的権威のある賞とされているものを受賞しながら受取を拒否している人たちも歴代を見渡す限りまあまあ存在します。

受け取っている人でも本気で喜んでいる人もいれば、「まあ勝手に評価しておけ」という態度をとっている人もいます。

もらっておいてやる

日本においても

「もらっておいてやる」

という言葉が騒がれたことがありました。

少し面白かったですが、本来それくらいの姿が正しいのです。

「評価されたほうが嬉しいだろう?」

というのは体育会系というかMr.脳筋の孔子の影響を受けたタイプの人達の考え方です。

評価をした相手を上位と認めることになりかねない

評価されて喜ぶということは、相手との上下を認め、評価をした相手を上位と認めるという形になりかねません。

これは通常の社会でも同様です。

就職活動をして内定が出ても平常心でいるのが普通です。

「相手に認めてもらえた」なんてな構造ではなく、自分と相手の都合がマッチしただけですから。

横柄になる必要もありませんが畏まる必要もありません。

賞賛に関しても、拒否する必要はありませんが喜ぶ必要もないのです。

といっても、ランキングとか口コミなどなど、どうしても社会の経済活動の中では、「第三者に評価されていること」を基準として選択されるという傾向があります。

ということで、本来特に喜んでいないにも関わらずマーケティングのために、賞賛を受け入れ、喜んでいるふりをしている人たちもいます。

もしくは、一応賞賛してくれた人の気持ちを踏みにじらないためにという菩提心でしょう。

それくらいの心持ちがベストです。

真に受けて、その相手からの評価、他人からの評価を自尊心の軸にしてしまっては、いつまでも振り回されることになります。

賞賛の効果 曙光 525

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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