気づいた時に「気づく」という気づき

気づいた時に「気づく」という気づきが、本質的なヴィパッサナーです。

「よし観察するぞ!」と、意気込むのもよいのですが、日常は、ふと気づいた時に、自然な呼吸を観察するなり、手や足の動作をラベリングしたりということを行うというのが良いと思います。

でないと、生活できませんから。

ただ、野放しにしていると、どんどんと知らぬ間に「アイツ」の引力に吸い込まれていきます。なので、気づいた時に気づくという習慣によって、筋力を鍛えるかのように集中力を鍛えてみましょう。

本来は意識を乱すものをすべて断ち切ってする方が良いですが、そのような極端なことをしなくても構いません。

意識を乱すものを断ち切れないのは、意識の中でまだロック状態にあるからですが、スパンと断ち切る前に気づく筋力を鍛えてもよいのではないかと思います。

身体記憶、不快感という身体の状態が頭に衝動を送り、言語化や記憶の想起を行います。

そして、本来の心、認識する働きである心は、拷問を受けるかのようにそれを受け取ります。

身体記憶から左脳へ、そして言語化された自責の言葉を、右脳の聴覚が受け取る、というようなイメージかもしれません。

自分であるのに、自分を拷問にかける、そうした構造になっています。

そうした「アイツのおしゃべり」を止めたいからと、誰かのせいにすることも往々にしてあります。

さらなる不快感を得たくない、日々続く自責の罵声を止めたい、ということの解決策として、「自責のおかわり」をせずに他人のせいにしたいということです。

しかしながら根本的には、疲労であり、身体記憶であり、ホルモン・神経伝達物質濃度等、特定の状態への恒常性維持機能です。

また、自分の声を聞きたくないからとテレビなどをつけっぱなしにして寝たりする人もいます。普通に考えると無音のほうが良いはずですが、それほど頭のおしゃべりがうるさいんですね。

現実の環境を変化させることでマシになることもあります。

しかしながら、根本で言うと、有身見を破るというようなことが唯一の苦からの脱出です。

そのプロセスは、気づき、観察です。

これは、拷問を受けているだけの「聴覚」のようなもの、受け取っているだけの心を「観察者」として自立し、起動させるということで発達させていくことができます。

それがヴィパッサナーです。

あるイラつきのような記憶の想起があったとしましょう。

普通は、「妄想」とラベリングして終わらせようとしますが、それができるのは、ある程度落ち着いているときです。つまりある程度集中力、意識の筋力があるときしかできません。

では、どうすればよいのかということですが、体に意識を向けて、どの部分にどのような緊張や痛み、違和感が生じているか、身体感覚だけを探すという気づき、観察のようなものに意識をシフトします。

記憶の想起を押さえつける必要はありません。

むしろ、「わかりにくいからもっと強く出てこい」と記憶を増幅しても構いません。

違和感を感じた場所に、力を抜こうともせず、ほぐそうともせず、逆に力を入れてみても良いですし、逆に、一切解決しなくて良い、「痛みは痛みのままそこにあれ」と放置しても構いません。

その部分を発見したら、放っておいて呼吸だけに意識を向けても良いです。

日常、焦ったりした時は、ひとまず、気づいた時に「気づく」という気づきを行ってください。

価値判断をしない、スルーする、思考の想起が起こったということだけを確認する、というのも良いですが、それだけではどうにもならない時、その拷問のような思考が起こった時の体の緊張を捉えるようにしてみましょう。

すべての「やりたいこと」が、それが終わったあとの解放を求めているという現実に気づくかもしれません。

観察の力が発達すると、常にその先にある「解放の自由」の中に入ることになります。

Aという問題を解決したい、Bというものを叶えたい、というものは、その先にある解放、その対象やそれに関連した隠れた対象を頭の外に追い出すための衝動でもあります。

ただそれは尿意のようなものです。

それを大きく評価することもなく、小さく評価することもなく、という感じで、別にその衝動を押さえつける必要もありません。

「欲も怒りもない」といっても尿意はします。

その先の解放の中にいる、自由の中にいる、といっても尿意はします。

それ以上でも以下でもありません。

解決しようと思うと、余計に緊張することがあります。

緊張を解こうと思うと、余計に緊張するというようなパラドクスです。

日々気付かない程度に、体に力が入っています。

世の中では、それを「姿勢が悪い」といって姿勢のせいにしますが、では、なぜ「姿勢が悪いと、体がさらに固くなる」のにその姿勢を取るのでしょうか?

そうした部分が語られないのが不思議です。

実は、「慢性的に筋肉が固くなっているのではなく、リアルタイムで緊張をしているだけ」ということがほとんどです。

肩コリや首コリについて「疲労物質が溜まっている」「癒着がある」という説明が多いですが、9割は嘘です。逆に言うと1割は本当です。

「意識しにくい形で、リアルタイムで力んでいる」というのが本当のところです。

もちろん作業等で酷使している場合等々、本当に疲労が蓄積しているという場合もあります。

しかしながらほとんどはリアルタイムの緊張です。

その緊張は、アイツ的思考によって常に起こっています。

端的には「行き詰まり」です。

なぜ行き詰まるのかと言うと、制限されているからです。

制限は思考によって起こります。

その思考の範疇を飛び出すことがないのは、身体に引っ張られているからです。

「これ以上緊張したくない。未知のもの、リスクを避けよ」という思考のリミッターです。

相互関係にあります。

ただ、どちらにしても、情報状態にしか過ぎません。

そんなことを観察によって飛び越えていくわけです。

観察力がつくと、「Aを叶えて緊張を解く」というプロセスが不要であることに気づいていきます。

「緊張から解放された状態」に先になってしまうという感じです。

するとAになってもならなくてもどちらでも良いということになり、Aの重要度が下がります。

ふと気づいた時に呼吸を観察し、「吐ききったあとに吸うという意図が発生し、吸うという動作が自然に起こる」ということを見るだけです。より厳密には、「膨らみと縮み」ですが、ひとまずは、そんなことは置いておきましょう。

ふとした時に、あらゆるものをラベリングする、身体感覚だけに注目するという感じです。

無意識を意識に上げるという感じになります。

タイピングしている時に、同時に指先の感覚に気づきます。

歩いている時に、右足、左足とラベリングしてみます。

これを気づいた時に「気づく」という感じで、繰り返すだけです。

無意識とは結局、身体記憶、神経のパターンです。厳密にはそれだけではありませんが、それを見るとよくわかります。

それを野放しにしていると、いつものパターンが繰り返されます。

わざと意味不明の出来事を起こしてしまったりします。

全く関係のないところから予想外の出来事が起こることもあります。

そんな時には、おそらく身体反応があります。

「ほう、なんだかんだでこの身体反応、神経伝達物質のバランスを欲しているのか」

という感じで、自分を客観視してみてください。

「んあ~」

と、のんきな時のマキバオーのようにのんきになってください。

ある程度観察力がついてきた時に、他者を見ると、最初は吐き気がするかもしれません。

右往左往することもあるかもしれません。

しかしそのうち、慈悲喜捨が湧き出てくるようになるのではないかと思います。

僕個人は、この数年をかけて、「一旦常人に戻り、それから全ての感覚プロセスをゼロから始めて、再確認したい」という意図があったのでしょう。

その中間プロセスにおいて、例えは悪いですが、「ホ◯ばかりの国にいて、自分が異常者扱いされていたが、日本に帰ってきた。しかし、元の世界に帰ってきたが、ひとまず、どうすればよいかわからない」という感覚になったことがあります。

「順応することも、アイデンティティをかけて抵抗するのも、どちらにして苦」という二重拘束状態から帰還したものの、そのままで良いということにポカーンとしているような状態です。

集中力が戻ってくると、別に面白くなくても良いし、面白くても良いが、特定の空間に順応するということもないだろう、という感覚になります。

日常は、日常のままであったとしても、気づいた時に、自己観察的視点に戻るだけで、世界は見違えるように変わります。

たいていは、気づきの習慣を忘れたり、「このようなことに意味があるのか」というアイツの抵抗によって、またそちら側に戻ります。

そこには自由も解放もなく、あったとしても束の間であるにも関わらずです。

「何かをしなければならない」というのはたいてい嘘です。

本当に水の中で溺れているとか、尿意が最大限になっているとかそういうものでない限り、嘘だらけです。

「不快感を感じている」というのは本当であっても、解決策がたいてい嘘なんです。

それは制限の中で「考えられた解決策」であることがほとんどですから。

ただ、考えることや解決策をもって解決することを避けるというのも誤りです。

このあたりがややこしいですが、気づきによって先に「緊張から解放された状態」になってしまうという順序が正解です。

Category:miscellaneous notes 雑記

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