性に合わない

更新がやや滞っていますが、もちろん放置や閉鎖するつもりなど毛頭ありません。

さて、「性に合わない」というお題は、大抵のことについて書けそうですが、少し絞りましょう。

人の性格を分類するような占いやデータ等、世の中にはたくさんの分類方法がありますが、中学校のときに感じた違和感と、比較的最近出た手塚治虫氏の「ブッダ」の劇場版についてでも書いていきましょう。

中学校の時に感じた違和感

世の中には様々なタイプの人がいますが、それを分類してその人に合わせた売り方をする、ということはよくビジネス界で行われていることです。

中学校といえば、それまでの6年間、人格の基礎を同じ場所で築き上げた小学校の同級生を含め、違う文化で育った他校生と、同じ学び舎にぶち込まれるという場所です。高校、大学も同じ構造ですが、やはり多感さで言えば中学生には勝てません。

ジャンプ派とコロコロ派

そこで感じた違和感は、ジャンプ派とコロコロ派、もう少し詳しく言えば、ジャンプ・マガジン・サンデー派とコロコロ・ボンボン派の違いです。

マイノリティとして、ガンガン・ギャグ王派という存在もいますが、大抵はコロコロ・ボンボンにプラスで読むといった派閥です。

僕はコロコロ派です。

ジャンプ派とは合いません。

コロコロはみんな仲良くです。友情がメインです。

ジャンプは、「悪をやっつける」ヒーロー物です。

ジャンプにも優れた作品はたくさんありますが、ジャンプ派は、コロコロ派を子供扱いし、当時で言えばいち早くスケートボードなどをやりだして、ドッヂボールなど鼻で笑うような気質です。

(「すげー理論」における「ジャンプ派」の登場 「前進」)

僕は後期のドラゴンボールが嫌いです。

初めの頃は面白かったのですが、結局、前よりも強い敵が出てきて、修行して強くなって、最後には勝つという、方程式の中のキャラクターや技だけを入れ替えたようなストーリーの使い回しに小学生の時に気づいていました。

母校(小学校)はみんなコロコロ派です。

そして、他校からやってきたみんなは、ジャンプ派、まるでハト派がタカ派に睨まれるような気持ちです。

しかし、Zが黙っていません。○玉が本格的に覚醒する頃、瞬く間にハトはハゲタカになりました。

おいおいジャンプ派…
「手塚治虫のブッダ」

以前、手塚治虫氏のブッダをおすすめ本としてご紹介しましたが、その手塚作品が、ジャンプ派の餌食になりました。

「何もわかっていない」

の一言です。

戦闘シーンだけ臨場感を出して、肝心要のところは原作とは違う作りになっています。

と、思うとライムスターの宇多丸氏が同じことをおっしゃっていました。

(動画を引用していましたが、削除されたようです)

動画が削除されたようなので、宇多丸氏の話の中で共感した部分を追記しておきます。

マンガの「手塚治虫のブッダ」

幼き頃のシッダルタの同級生のような子供が、ウサギを追いかけるシーンがあります。

本来、マンガの「手塚治虫のブッダ」では、その同級生が遊びの延長でウサギを狩るような形で矢を投げ、ウサギは死んでしまいます。

その後、その同級生(ジョーテカ)は沼のような所に溺れて死んでしまいます。

ウサギと同級生の死体を見て、幼きシッダルタは物思いに耽ります。

「ウサギにしても同級生にしても、さっきまで元気に動いていたものが死んでしまったら、同じように動かなくなるんだ。

生きているとはなんだろう、死ぬとはなんだろう、ウサギと人間に違いはあるのか、死んでしまったら同じじゃないか」

というようなことを考えます。

生きるということ、死ぬということ、そして、バラモンから教育されていた身分制度、つまりカースト自体に疑問を抱くという感じです。

ジャンプ派の映画「手塚治虫のブッダ」

ところがジャンプ派の「手塚治虫のブッダ」は、まず同級生がウサギを追いかけます。

そして矢を投げますが、ウサギには当たりません。

そしてそのまま勢いで沼のような所に溺れ、そのまま溺れ死にます。

それを見たシッダルタは、育ての親マハー・プラジャパティーに「うえーん。○○が死んじゃった」と泣きつくという形で表現しています。

肝心要のところがパスされているのです。

その他まだ、出家し沙門にもなっていないシッダルタが敵国と戦いになるシーンがあります。

そういうバトルシーンだけはやたらと力を入れています。

そしてその時に、まだ出家すらしていないシッダルタを見た敵が「なんだ、この清らかな目は」といって怯むシーンがあります。

ジャンプお得意の、「すごい能力を持った主人公」です。

「よくこんなものを作ったな」

という感想です。

手塚氏が生きていたら、どんな事を思うでしょうか。

この映画を作った人は、原作を本当に読んだのでしょうか?

読んだのならば、読解力を疑ったほうがいい。

ジャンプ調のブッダは、過去最悪の駄作です。

少なくともこの映画「手塚治虫のブッダ」を見て、手塚治虫氏の描いた「ブッダ」を知ったような気になることは避けてください。

ひとつの寓話

性に合わない 曙光 500


ジャンプ派で体育会系の人たちは、小学校高学年から中学生くらいになると、悉く藤子不二雄作品やコロコロコミックをバカにしてきます。そうした「体育会系のジャンプ派が藤子不二雄作品をバカにする理由」について

いつまでも子どもでいるために

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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