演劇などを見せられると、感動するどころか「寒気」がしてしまいます。特に売れない劇団が何か地域の催し物で無償で舞台などをしていると本当に鳥肌が立ちます。
全てのタイプの演劇というわけではないのですが、もう個人的にはあの演劇中の「しらこさ」には体感レベルで耐えきれない自分がいます。
そうした演劇、お芝居の寒さは、「見ているこちらが恥ずかしい」という類のものですが、その寒さをどこまで究極的に楽しんでしまうか、というのが以前ひとつのテーマでした。
演劇用の喋り方に寒気
排除したいという気持ちは「怒り」ということになっているようですが、怒りを感じずに、つまり「目の前から排除したいという気持ち」をいかに消してしまうか、これにはただの現象として捉える以外にも解釈を変えるということが手法としては可能です。
大人の劇団員の「演劇用の喋り方」はひどく寒気がしますが、幼稚園児が演じる「お遊戯」ならそういう寒さはありません。やはり無理をしているような感覚が伝わってきて、鳥肌を呼び起こすのでしょうか。
演劇・舞台を見るといつもそうした演劇用の喋り方に寒気がしてしまい、本当に鳥肌で一杯になるほどの強烈な寒さがやってきます。
声が届かないということで「遠くに届く『通る声』」を必要としたという背景があるのだと思いますが、音響設備の整った現代において、なぜそれがスタンダードになっているのか未だに理解ができません。
これに対して単に怒りで対処するのではなく、リアルタイムミックス作業によって寒さを別の感情に変化させてしまおうという感じで、対象の認識、解釈を変えて逆に楽しんでしまおうという感じです。
「排除」を排除するためのリアルタイムミックス作業
「強烈な寒さ」、それを解決するための以前用いていた「解釈を変える」の一つの手法ですが、目の前の演劇はそのまま視覚情報として、また声も聴覚情報として捉えるには捉えるのですが、頭の中で小田和正氏の「たしかなこと」を流すという手法です。
演劇を観ながら聞きながら、「たしかなこと」をリアルタイムミックスしてみてください。
そうすると寒さや怒りはどこへやら、アートではないものが目の前にあるのに、自分の頭の中で芸術が出来上がります。
感情エネルギーを芸術に昇華させるというのは、このようなことです。
個人的にはそんなことをしなくてもいいような素晴らしい演劇を一度でいいので観てみたいと思っています。
徳の俳優と罪の俳優 曙光 29
最終更新日: