ルサンチマン

ルサンチマン(ressentiment)とは、「弱者による強者に対する怨恨」とするのが一般的です。怨恨の他に憤り、憎悪・非難、単純に僻みという風に説明されたりします。キェルケゴール発端ですが、ニーチェも「道徳の系譜」以降さんざん使う言葉です。ニーチェの場合は、さんざん使うというより、彼としては考えの一種の主軸になっています。

ただしルサンチマンを怨恨や憎悪などの「感情」と解してしまうと誤った方向に行きかねません。「怨恨感情をルサンチマンと呼ぶ」という辞書的な解釈をすると、単に感情にラベリングをしただけになってしまいます。

すでに哲学は手放しており、哲学カテゴリも昨年9月より更新していませんでした。特に「誰かがいった『あの用語』」の説明はしても仕方ない、と思いながらも、雑誌やテレビなどのマス媒体で、「要約しすぎて本質から外れすぎている説明」がたくさん出るため、一応書いてみようかなぁ、と思った次第です。

そしてもうひとつは、この「ルサンチマン」は、一歩間違えると、正反対の方向に向かってしまう恐れのある言葉だからです。

どういう意味での危険性か、

それは、「強者だと思っている人のルサンチマンの誤用」が生じることです。残念ですが、本来は価値のようなものやその基準は「社会」が主軸ではありませんし、この認識の中で重要となるのは主観だからです。その理由は簡単です。

簡潔なところで言えば、ある社会基準があったとして、それが常識とされているようなことであったとしても、その「誰かが判断したこと」を価値基準として採用しているのも自分だからです。

もっと深いところで言えば、社会自体が「自らの意識の中で生み出される空虚なもの」というところですが、今のところはさておきましょう。さておくどころか、今までたくさん書いてきたことです。

それではルサンチマンという概念をどう捉え、それを発端として「自分はどうあるべきなのか?」ということについて書いていきます。

ルサンチマンとは何なのだろう?

ルサンチマンは怨恨や憎悪、僻みや嫉みや非難といった感情として説明されることがほとんどですが、そうした単純な概念ではありません。

ressentimentはフランス語ですが、恨みや僻みという感情そのものを指すのであれば、わざわざ専門用語化する必要はありません。その奥に奴隷精神があり、奴隷道徳がある上での、思考上の解釈変更がルサンチマンです。

奴隷と対になる君主側の「君主道徳」と相対化した上での奴隷道徳が弱者側にあり、その上で強者である君主に対して抱く「感情」と説明されますが、感情ではなく思考上の解釈変更によってどう自尊心を維持するかというような側面がルサンチマンです。

いわば劣等感のようなものを思考上の価値判断における「解釈変更」でやり過ごそうとするのがルサンチマンであり、例えば社会的弱者が社会的な基準の上で自らのし上がろうとするのではなく、キリスト教圏であれば「虐げられているのは神の子の証である」というような形で納得し、「私は神の子、あの人達はサタン」というような構造を持って劣等感を克服しようとする、というような感じです。

こうしたルサンチマンは、弱者と強者という対比のもと、弱者側にしか存在しないと考えられていますが、強者と思っている側にも同じ様な異なった自分たち流の解釈基準があり、僕から言わせるとどんぐりの背比べです。

それでは、ルサンチマンの一般的な定義である「弱者による強者に対する怨恨」という面をそのまま読んでしまう前に、弱者とは何なのか、強者とは何なのか、という点について触れていきましょう。そして、その後に「怨恨」も考えてみましょう。

弱者と強者

弱者による強者に対する怨恨というフレーズからすぐに思い浮かぶのは「社会的」や「経済的」が付く場合の弱者と強者です。

マスメディアなどで「弱者」と表示されていると、すぐにそんな観念が浮かぶはずです。というより、普通の人はそれくらいしか意識のデータとしてありません。もう少し考えてせいぜい「学力」や「力や技能」といった面くらいでしょう。それくらいしか考えたことがないのだから、仕方ありません。しかし、ニーチェにしろ、キェルケゴールにしろ、それで終わるような「雑誌程度」の思考力ではありません。

弱者による強者に対する怨恨=ルサンチマン

で「○」をくれるのは、簡単なテストか、クイズ番組程度です。ニーチェは「心の歯ぎしり」というような表現をしたりしましたが、そうしたものは言葉によるラベリングができているだけで、概念そのものを把握したり、自ら考えて結論づけたわけではありません。そんなものをいくら知っていても、役には立ちません。せいぜい飲み屋での雑談程度です。

さて、弱者とは一般的には経済的、社会的弱者をさします。しかし、まだ続きがあります。それは後ほど。

道徳の系譜における弱者と強者

ここでニーチェの「道徳の系譜」において第一論文「『善と悪』『よいとわるい』」で示される弱者と強者について、君主道徳と奴隷道徳の間の区別について少し触れておきます。

ここで示される弱者と強者の分類は、ローマ帝国に支配されていたユダヤ民族が弱者、支配者であるローマ人たちが強者ということになります。

キリスト教的な道徳として人のために尽くしなさい的な利他精神を良しとするにも、その手前に自分自身が強く、生を肯定していなければそんなことはできない、という感じで「偽善ぶるな!」としたのがニーチェです。勇敢で力強く、生を肯定し、人生を満喫しているローマ人こそが「よい」であり強者であるとし、貧しく不健康で虐げられているユダヤ人を「わるい」であり弱者であるという感じで捉えました。

その上で、「本当は羨ましいくせに」といった感じで、宗教的な価値観を武器に「弱く貧しいものほど良い」と考えることこそが弱者であると考えました。この時、ローマ人の生き方こそ君主道徳であり強者の発想、ユダヤ人の生き方こそ奴隷道徳であり、弱者の発想だという感じで捉えたということになります。

怨恨と復讐

ルサンチマンを「怨恨」という風に捉えるのは、短絡的すぎます。ただの恨みや僻み、という面より、恨みの感情をどう処理するか、という思考面での方法論です。

想像上の復讐という風に説明されたりもしますが、復讐というより、自己完結です。

一般的な復讐でも、自分の中で「これをやったら私の勝ち」という価値基準、判断基準があるはずです。自分が苦しんでいる分、相手を傷つけて、苦しんでいるさまを見て喜ぶといった具合です。

ルサンチマンは、復讐というより、解釈変更です。価値基準をオリジナルにしてしまう、というものです。

学校で評価されるのは、成績の良い人です。そこで、喧嘩でも仕掛けてボコボコにしてでも勝って、「喧嘩の強いほうが上だ」とするようなことです。

それがどんどん進んで、実際に喧嘩が出来ないからといって、自分のほうが「歌が上手い」という、実際に相手と戦うまでもなく、自分で価値基準を決めて、「相手より上位だ」というふうに、「恨み」のような感情を思考面で「価値の解釈」を変更して解消していくこと、それがルサンチマンです。

自己啓発洗脳組や新興宗教にありがちですね。

「本当の幸せ」とか「神の子である証」とか「虐げられることで悪いカルマが消える」等々です。

相手を傷つけるといった直接的な「復讐」ではありませんが、「私は偉く尊いが、あの人達はそうではない」というような意識の上での復讐という構造を持っています。

といっても、価値の解釈の変更を行いつつ、相手の価値自体に何某か怨恨感情のようなものを保持しているのならば、相手の価値基準自体を少なからず認めていることになり、どこかしらは意識に不満が残るはずです。

狭義のルサンチマン

ルサンチマンがもっと狭義になると、その解釈変更が宗教的なものになります。つまり「この世は辛いよ、勝てないよ」と、厭世主義的に、この世を無価値だと捉え、一種のニヒリズムに陥った時に取る態度として、「自分は神の示し申した『あるべき人間の姿』に近い、あいつよりも」ということで、死後に天国に行くとか、来世にすべてをかけたり、今でも『あいつらよりは優れている』と、諦めから立ち直るという手法をとります。

これが狭義のルサンチマンです。ただの「弱者の怨恨」ではありません。怨恨という感情よりも、その解消法です。

ルサンチマンは、自分の状態を正当化する「奴隷精神」、ということです。この精神には感情だけでなく、思考も含まれているということです。

ニーチェのいた時代は、いわばキリスト教文化がそうした解釈変更の土台となっていました。迫害されること、虐げられること、弱者側にいることが神の子の証であるというような風潮があったという感じです。

道徳の系譜における「原罪や来世を用いた言い訳」

ここでニーチェの「道徳の系譜」において第二論文「『負い目』『良心の疚しさ』およびどの類のことども」で示される、ルサンチマンに利用される「来世を用いた言い訳」について少し触れておきます。

キリスト教的なものに限らず宗教というのは、死後の世界について観念を与えます。ニーチェは、そうした死後・来世への期待を根拠に怨恨感情からの解釈変更を肯定しようとする働きに対する批判をしました。弱者たちは、「強者に勝てない弱者の気持ち、怨恨の気持ち、憎悪の気持ちは自分自身の中にあり、それは原罪であって自ら克服しなければならない」という発想の転換をしました。そこで忍耐や禁欲をもって貧しさを受け入れることは善いことであるという感じになり、「私達は素晴らしい」という構造を作ることに成功しました。

つまり、憎悪や羨みすらも罪であるため、「強者を羨んでしまっては死後に天国に行けない」という考えを持って生を否定し、弱者たることは素晴らしいという形でルサンチマンを肯定したという感じになります。繰り返す羨みや憎悪、怨恨感情は、「私達のほうが善である」という解釈変更をもって解消するがよいという発想です。

そこから不満だらけでうまくいっていない状態にあるのが弱者であり、その弱者が「本当は私のほうがすごいのだ、すごくうまくいっているのだ」と視点を変更したりすること、それがルサンチマンです。

奴隷精神・奴隷道徳の弊害

概ね様々な哲学者がルサンチマンを元に指摘したのが奴隷精神・奴隷道徳の弊害です。

それは体育会系解釈のように、「勝手に基準を変えていないで努力しろ」というようなものや、「そうした怨恨感情を伴う解釈変更による自尊心の回復は、相手に力を与えていることになる」という面など、いろいろな弊害があります。

例えば「勝手に価値基準を変えていないで現状を打破するために努力しろ」というような発想ですが、これは現状の社会的な価値、君主道徳の方を盲目的に肯定することになります。

それを傍目で羨みながら、僻み根性で解釈変更するのはまさにルサンチマンですが、それを盲目的に受け入れるというのもまた誤謬なのです。

単純に「僻んで恨んだ上で価値基準をオリジナルにし、自尊心を回復させる」ということは、相手の基準の正当性をある種認めていることになり、力を与えています。

強者を君主、弱者を奴隷と考えると、君主の力を認めながら、価値基準を変更することで別に生きがいを見つけて「不服ながらも現実を見ないようにする」という事になってしまいます。

環境に適応するためにある種羨みながら、一方で価値基準の解釈変更を行い、耐え忍びつつ「自分の価値を下げてしまう」というのも変ですが、それよりも問題なのは社会的にもたらされたものであれ、宗教的な概念であれ「何かの基準」に価値があると盲目的に盲信している点にあります。

ルサンチマンを社会的に解釈してしまうと

このようにしてルサンチマンを捉えるとすぐに出てくる考えがあります。

「ただの僻みの負け惜しみじゃないか」

「出た出た。弱者の強がりが」

ということです。そうなってしまいます。しかしそれには前提があります。それはその価値基準は正当であり、場合によって自分たちは強者だという定義です。

しかし、その定義はいかにして定義づけされたのでしょうか。

「ルサンチマン」

この言葉をそのままとらえてしまうと、強者だと思っている人たちが、「いやいや、それルサンチマンでしょ?何僻んでんの?負け惜しみはよしときなよ」と、伝家の宝刀のように振りかざすだけになります。しかし、それだけではありません。

強弱の判断基準を認めて保持している

そこには強弱の判断基準というものを盲目的に認めている、というものが隠れています。

それは、それが弱者であれ、強者であれ、共に「強弱の判断基準」を認めて保持しているということから起こります。

その前提がなければ、強者は強者である根拠や「誇り」が崩れ、弱者も「ルサンチマン」を発動できません。

その価値判断基準はどこから来ているのでしょうか。正当性など、伝統的正当性や民主主義的正当性くらいしかありません。それも、それがどう正しいのか、確実に論証はすることができません。

価値基準、解釈を変更しようという奴隷精神ルサンチマンは、あくまで「自らは弱者である」と、考えなければ出てきません。

まず、どうして、そのような価値基準が必要なのでしょうか。

「それは僻みの負け惜しみだ」も同じこと

いままでたくさん書いてきたように、「誰に対して訴えているのか」ということです。そして、その対象に承認され、承認されたと判断し、承認されてよかった、とするのは自らの意識しかありません。自作自演ですね。

それはここで言う強者の場合も同じです。誰に対して訴えかけているのか、ということです。

その対象が実在していようがいまいが、その判断基準や判断材料を決めているのは自分です。その対象に適っているのかいないのか、というところも自分で認識しています。

全てが茶番です。

価値基準が必要か否か、それが正当性を持つのか、という点については、五感と意識しかありませんから、議論の必要がありません。

すべて錯覚の内で起こっていることです。

社会に認められた、と感じるのは自分であり、この五感と意識以外に何かが実在していようがいまいが、感じるのは自分でしかありません。

それすらも、今この瞬間が去ればその感情も消え、事実とされていることも過去の記憶になり、もうどこにもありません。

自分の意識のようなものも、他かの情報で構築され、自動で動いて演算しているようなものなのだから、自分のオリジナルなどどこにもありません。

そんな中で、常に感じ、受け取ることしかできないのに、実在かのように錯覚して、意識に入ってきたものを実在していると感じて、勝手に価値基準を作り、勝手に判断しているだけです。

それは「僻みの負け惜しみじゃないか」と思ってしまう「強者」も同じことです。

弱者も強者も、他人の意識の中で生きている、ということです。

「ルサンチマン」や「誇り」への対処法

「ルサンチマンだ!」

「いや、貴様の方がおかしい!」

「そんなことは『強者』になってから言え!」

これはよくあるやりとりです。

残念ですが、お互いに間違っています。互いが互いに勝とうとしているからです。つまり、お互いが相手からの承認、相手の屈服を条件にした「自尊心獲得ゲーム」に勤しんでいるという構造になっています。

この時「強者」と言い張る側も、相手に自分を認めさせようとしています。ということは、相手に認められなければ「悔しい」ということになります。ということは、強者だと思っていながらも、相手の反応、相手の承認に依存していることになってしまいます。

ここでやってしまうことは、悔しいという感情を解消したいがために、自らの正当性を相手に主張することです。数ある正当性の根拠を持ちだして、なんとか理詰めで説得しようとします。

もしくは、何かの判断基準を認めた上で、同じようなレベルにまで這い上がろうとするようなことです。

「ようやく肩を並べられた、これで誰にも文句を言われまい。これが私の誇りだ」

それが無理だと判断した場合は、自己完結のルサンチマンという手法を使うということです。

「ほら、この基準に照らし合わせると私の勝ちだ」

全て無駄なことです。共に自尊心という虚像に気づいていません。

「解釈変更して価値基準を変えただけで、『どこかから正当性をもちだして自分を納得させよう、できれば相手も』という構図は、結局同じじゃないか」ということです。

他人の意識から脱したとき、弱者も強者も、ルサンチマンも誇りも、どこにも無いということが体感としてわかるはずです。

そこで取るべき方向性は、解釈変更による「価値基準・判断基準」の変更・創作、ではなく「なんじゃそりゃ」です。

「なんじゃそりゃ」「それがどうした」

です。

相手に伝える必要はありません。

「そんなものよりもこちらのほうが…」

すら必要ありません。

相手に対抗している時点で、まだ相手に自分の感情の舵取りをさせています。

「他人」を意識から無くした時、他人も社会も「あって、無いような霧のようなもの」だと気づいたなら、弱者も強者も、ルサンチマンも誇りも「なんでそんなもんが要るんだ?邪魔なだけじゃないか」ということが体感としてわかるはずです。

「勝手に条件を決めて、その条件を満たす」という構図からいち早く抜け出すことです。

「解釈変更によって『勝つ』必要すらない」ということです。

Category:philosophy 哲学

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