「ぼくがぼくであること」
山中 恒氏の作品ですが、この本には不思議な思い入れがあります。
それは弟が初めて僕に薦めてきた本であり、貸してくれた本であるからという感じになっています。
「ぼくがぼくであること」は、物語としても読んでいて面白い作品です。
その本のことを思い出し再度読み返そうと思いました。実家に取りに行ってもよかったのですが、弟からの借り物であるため、改めて自分で買うことにしました。
改めて読んでみるとやっぱり面白かったので、一応ここに記しておこうと思います。
―
さて、弟が15歳か16歳位の頃だったと思います。その頃に、なんの脈略もなく「ぼくがぼくであること」を僕に差し出してきました。
本編との直接の関係性はありませんが、一種の自立の宣言、決意、意志表示だったのかもしれません。
「大人はアテにならない」
ということ
そして
できれば後をついていくようなことはせずに自分で道を決めること、僕の後をついていくとしても、自分の意志はそこに含むこと、頼り切らないこと、そんなことを示してきたような、そんな気がしました。
どうしても弟というものは兄の行動を見て影響をされがちです。うまくいっていそうならば追従し、うまくいっていなさそうならば、それを避けるという感じになりがちで、構造上致し方ない面があります。
―
人によってはやたらと身内贔屓をする人がいます。また、身内だからとその人の生き方まで無理に決めようとする人もいます。
多少の贔屓ならば致し方ない面もありそうなものですが、過剰な世話で自立心を奪う場合もあります。また、親や兄弟といった家庭という社会の関係性を利用して、その人の人生を奪うようなことをする人もいます。
僕は、弟から「ぼくがぼくであること」を差し出され、それを読んだ時に、友達にするようなこと以外のことは手を貸さないことにしました。
すなわちそれは、友達程度にしか贔屓や配慮のようなことはしないということです。
なぜならそれは、特別の贔屓をするということは、「ぼくがぼくであること」を貸してくれた弟の気持ちを裏切ることになるからです。
今までにもフリーターから上場企業へ等々で、友人たちに手を貸したことはありました。でもそれ以上のことをするつもりはありません。
友達数人の顔を思い浮かべ、彼らに対するもの以上のものにならないように、ずっと心がけています。
感覚でいうと
「代わりに面接をネット予約することや面接対策のアドバイスはできても、面接そのものを肩代わりすることはできない」
という程度で、面接をパスして仕事を与えるなんてなことは、なおさらしたくないという感じで思っています。
―
かなり前ですが、弟が勤め先の社長と大喧嘩をして退職するというようなことがありました。そこで独立が視野に入ったようですが、僕としては、もちろん資本的な援助等はしていません。
資本金を出してすぐに代表取締役にすることもできます。「本業」以外の様々な業務の部分を整えることもできます。でも、それをするということは、極端に言うと弟を「一人の人間」「一人の大人」として見ていないことになります。
母としては母親としての感情からか「何とかしてあげて」と言ってきたりしますが、なんとかするのは彼自身です。いつもそう言って母を一蹴することにしています。
やったことといえば、僕の会社の顧客で、弟と同業種の社長に話を聞いてもらうという席を設けた程度です。
それも、先方には一応話を通した上で(快諾をいただき感謝の限りでした)、「弟から連絡をさせます」と言っただけで、その後の流れは彼らに任せる感じで繋いだ程度です。
僕がすべてをセッティングして、さらに同席となると甘えが出ます。
緊張するかもしれませんが、その緊張は弟を成長させてくれます。
そんな感じで「きっと、友人からの相談であればその程度のことはしただろう」という程度にしか手を貸しませんでした(むしろ友人であれば同席くらいの感じでより緩やかだったかもしれません)。
―
結局、僕の知らないところで、漠然とした事業計画だけを持って、先方のオフィスに出向き、当の社長さんと仲良く話し込んだようでした(後日僕も電話でお礼を伝えておきました)。
相当固定観念が崩れたようで貴重な経験になったようでした。
それは僕が作った経験ではなく、弟と当の社長さんが生み出した経験です。
だからその経験は弟自身のものになります。
―
あの日、「ぼくがぼくであること」を渡してくれた弟に、少しは恩返しができたような気がしました。