あらゆる謙遜の限界

不合理なるがゆえに私は信じると語り、その理性を犠牲に供するような謙遜は、おそらくすでに多くの者がなしとげたであろう。しかし私が知るかぎり、それからともかく一歩だけ離れていて、私が不合理なるがゆえに私は信じると語る、あの謙遜をなしとげた者はいない。 曙光 417

あらゆる謙遜(けんそん)の限界ということで、謙ることについてでも触れていきましょう。

慇懃無礼(いんぎんぶれい)という言葉があるように必要以上の謙りは一種の皮肉となり、時に相手に対して失礼になったりします。

謙遜はマナーのひとつとして考えられていますが、己の深いところでの信念まで曲げてしまうことになると様々な問題が生じてきます。

慇懃無礼などの多様な謙遜のあり方

慇懃無礼位の感覚で姿を装い、態度などが謙遜染みていようが、その奥の信念レベルでは本当に自分に劣等感を感じていないのなら問題はありません。

しかし、体育会系にありがちなように本当に謙遜に比例して自分に劣等感を持つ状態なのであればそれは大問題です。

慇懃無礼というものを筆頭に、謙遜は様々な形で利用されます。意図的な謙遜により相手を調子に乗らせる戦術もあれば、相手が謙遜していることを利用して勘違い野郎が空間を支配しようとしてくる場合もあります。

また、謙遜のつもりが言葉につられて自己洗脳となり、劣等感を生み出す場合もありますし、憐れみ乞いを潜ませているのような謙遜の形もあります。

意図的な謙遜により相手を調子に乗らせる戦術

そして時に謙遜によって、相手に調子を乗らせるということが起こり得たりします。

実際はパワーバランスで負けているという気はないのですが、へりくだることによって相手のガードを緩ませて、うまく自己都合の方に誘導したり、罠に嵌めるということが起こったりもします。

勘違い野郎による空間の支配

また、稀に勘違い野郎などが現れ、周りの謙遜具合を利用してその空間を支配しようとすることが起こりえます。

周りの人たちは一種のマナーとして謙遜しているに過ぎないのですが、何かしら勘違いが起こり、「私は偉いのだ」という空気を作り、その空気を利用してパワーバランスで勝とうとするような輩です。

謙遜のつもりが劣等感を生み出す

さらに、若干の社会的なヒエラルキーや自己のステータスを元に謙遜をしすぎると、本当にその言葉につられるように劣等感を感じてしまうことも起こってしまうことがあります。

へりくだりの言葉が、アファメーション、セルフトーク的な自己洗脳となり、劣等感を生じさせてしまうというような感じです。

憐れみ乞い要素のある謙遜

謙遜せずに自慢ばかりして、その言動をもって自尊心を満たそうとしている様は京都ではご法度ですが、同時に憐れみ乞いのような謙遜をするのもご法度です。

また相手の謙りをもって横柄になったり、褒めに対して無駄に喜んだり自慢したりすると、心底馬鹿にされるのがこの土地の文化です。

虚勢を張りつつあえて謙遜しない場合

虚勢を張るような形で、あえて謙遜しないというところはすぐに見抜かれます。

「自分は自己評価が高いから謙遜などしない」という感じであっても、心の奥底では劣等感を潜ませているという場合はよくあります。「オレはオレ教」などと言っているような人ですね。

しかしながら心底劣等感が無く、謙遜自体を無駄なものだと心底思っているのであればそれは通用したりします。

心の何処かでは謙遜をマナーだと思いながら、「オレはオレ教」などとタメ口で虚勢を張っている様は疎がられますが、別に本当に垣根のないマインドがあるのならば、それは許容されます。

「オレはオレ教」という吹聴に矛盾が生じないようにと、あえて謙ること無く話しつつ、一方どこかで抵抗を感じながら、自分を振る立たせているようでは、その意識が見抜かれてしまいます。

表面上の謙遜云々ではなく、その奥の意識レベルによって判断されるような形です。

そういうわけで、内側の状態が外に反映される、ということを別の角度から解釈すれば、このような感じになります。

力の感情の鋭敏さ

あらゆる謙遜の限界 曙光 417


礼儀は一種の洗脳であり、意識的な結界でもあります。基本的なマナーというものは「相手を不快にさせない」というものであるはずなのに、礼儀が形式的になった故に、「礼儀がなっていない」という無駄な不快感を呼び起こすものにすらなっています。

礼儀の条件

「油断させるために弱く見せる」ということについて

油断させるために弱く見せる

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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