じつはこの世の中は好き・嫌いで判断できないグレーゾーン”好きじゃないけど嫌いでもない”ものが大半を占めています。
大好きなあの曲も、あの食べ物も連続百回ならやはりどんどん嫌になってくるでしょう。そうなると好きでも嫌いでもない極めて中庸なものが一番安定的に必要であることに気づきます。
癖のあるものほど刺激的で一時的にはすごく興奮するものですが、それが連続すると嫌になってきます。そうなるとクセのない「水」などが一番だということに気づきます。
そんなに好きでもないグレーゾーンのもの
ともすれば興奮を求めて、興奮を買うためにお金を欲しがりますが、その興奮を求める気持ちがなくなってくると、お金も必要な分しかいらないことに気づきます。その実感はある程度お金を使ってみなければわからないかもしれません。
好きなものならすぐに買いに行けばいいのですが、そんなに好きでもないグレーゾーンのものばかり、本当に好きなものは各ジャンルでたいてい一つに絞られてくるので何個も買うことも無意味です。
深い仲になるのに努力は必要ない
いままで少しお話しただけでも、何千人、何万人と数え切れない程の人と触れてきたはずですが、やはりずーっと遊んでいるのはものの数人です。
その数人と深い仲になるのに努力は必要ありませんでした。ただただ自然にそうなっただけで、力みはどこにもありません。そういう仲の人と出会うためと称してたくさんの浅い付き合いをしている人がいますが、無理をしているようにしか見えません。
どこかに無理をしていると、好きでもないものを好きになろうと「努力」したりしてしまいます。努力をしている限り、好きなものにも出会えません。自分に嘘をついているのですから。
公益性と感情
全体主義、公益性、倫理観、常識というものがなぜか感情より優先されています。それは、あまりに変な行動を起こす人を抑制しようという流れですが、本来は、全員が感情に従えば、抑圧されているエネルギーが無くなって自然にバランスのとれた状態になるはずです。
全員が感情のままに動いては大変になるという考えは、普通に考えればその通りですが、何か自分の感情を押さえつけて溜まったエネルギーが犯罪などを起こすと思っています。元から押さえつけなければ、貪りの心も、奪う心もそもそも生まれません。
いじめ事件などがありましたが、それを非難している人たちも会社では下請け業者や派遣社員などをいじめているのではないでしょうか。
そういう歪の最終的な出処がそういうところなだけで、自分たちは悪くないとタカをくくっていますが、それは本当にそうでしょうか。
ゲーム理論的なジレンマ状態
ただ、ゲーム理論的に、ジレンマ状態があって、なかなかバランスは取り戻せない、分かっていても、一度国家を解体するくらいのことをしなければリセットできない、ただそれだけのような気がします。
元をたどれば、資本主義というよりも、不動産などにむやみに価値をつけてしまったからの悲劇なのかもしれません。
自分で稼いだ金で不動産運用を始めたのならまだしも、親から受け継いだ土地で「地主」という考え方自体が、不平等の起源ですね。
本当に好き!
本当に好きになりたいのは自分自身のはずです。
他人のことはさておいて自分のことが大好きになれば、あとは感情に素直になれます。
感情に素直になると、好きなものはより好きになります。ストッパーがなくなります。逆に嫌いなものはとことん嫌いになります。グレーゾーンはほとんど目の前を通り過ぎて行きます。
グレーゾーンに分散していた気力が温存されるので気が滅入ることがありません。好きなものだけを堪能するだけの生き方が始まります。
百人の知り合いより一人の親友、百人のメスより一人の女性がもっとも人生を彩ることは言うまでもありません。
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