形見の品のようなもの

墓を筆頭に故人に対する思いを物質的に扱ったものは、単に執著を生み出すだけなのでなるべく避けるべきことではあります。

特に墓石などは高額で、さらに継続した儀式などでお金を取られたりすることになる、つまり、霊感商法的な墓場ビジネスに利用されるだけなので避けねばなりません(墓場ビジネスと霊感商法)。繰り返しておきますが、心を縛る執著を生むため原始仏教などでは墓は否定されており、墓は後世において利権獲得のためにご都合解釈で運用され始めたシステムです。

まあそんな感じなので、わざわざ改めて墓を作るということはしなくても構いませんが、多少なりと思いが整理できないのであれば、思い出の品として形見の品のようなものを保持しておくくらいはいいのではないでしょうか。

変に「墓を作らねばならない」などと思ってしまうくらいなら、形見の品を持っているしている方がマシのような気もします。

しかし執著は心に苦しみを生む要因になります。なので、その品が無くなっても「別にいいよ」と思えるまで、という感じです。

その形見の品が壊されたりすれば怒り狂ってしまうとか、落胆し悲しんでしまうというのであればそれは物への執著があるということになってしまいます。ということで苦しみのタネになります。

厳密に言えばその物に対して、とりわけその物の実質的な機能に対してというより、それと関連付けられた思い出に対する執著という感じになるでしょう。

まあその物への執著がないのであれば別にその後に捨てる必要もないのですが、思い出に対して「しがみつく」という感じが残っているとそれは何かのきっかけで苦しみを作り出してしまいます。

なので、まあ無いに越したことはないですが、別に邪魔者扱いする必要もないような気がします。

個人的には形見の品のようなものとして、いくつかのものが机の周りに置いてあったりします。

それは、ピーコちゃんの羽根だったり、養子の遺骨だったり、母方のおばあちゃんとハウステンボスに行った時にスタンプラリー的なものの粗品としてもらった陶器の置物だったりです。

それはどちらかというと思い出というより、ある種「我が師匠から受け継いだもの」を意識の重要事項として置いておくという感じです。作業デスクに付箋メモを貼るとか、法学部生が六法をかばんに入れておくいう感じに近いかもしれません。

Category:笑う月

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