家畜、愛玩動物、およびその同族

最も兇暴な敵として、はじめから植物や動物の間を荒らし廻り、最後には、衰弱し不具になったその犠牲のために、さらに思いやりさえ要求するような生物の側からの、植物や動物に対する感傷ほど、嫌悪するべきものがあろうか!この種の「自然」に面したとき、人間―もし彼が考える人間であるとすれば―にとっては何よりも真面目がふさわしい。 曙光 286

「家畜」や「愛玩動物」果ては「経済動物」などという呼び方は、人間が人間との間で勝手に使っている言葉であって、当の動物たちからすれば言われる筋合いのない言葉です。家畜とされるネパールの山奥で出会った鶏が教えてくれました。

動植物を人間の下位に置くという発想が発端となっていますが、生きるためという本能レベルを越えて、楽しむため、感情を高めるためにとそれらを踏み台にしようという発想すらあります。

動物や植物などに対してそのような意識を持っていると、動物や植物から何も学べなくなってしまいます。

愛玩動物という表現

愛玩動物という表現は良い表現だとは思えない部分があります。漢字の構成を見ると「玩」という字が含まれているからです。この字には「もてあそぶ」「なぐさみものにする」という意味が含まれています。

一応「玩」には「めでる」という意味の用法もあり、「愛」という字を組み合わせることによって、多少「下に見て利用する」というような意味合いを打ち消している感はありますが、おもちゃ=玩具ということから考えても、その字が「あそぶための」という意味を含むのは何となくご理解いただけると思います。

まあそこまで意図せずに愛玩動物という言葉が使われているフシがありますが、いわば愛玩動物という表現にはどこかしら「人間のための」とか「人が喜ぶための」といった要素が含まれています。

すなわちこれは、「人の感情のために利用する」という意味を含んでいるという感じです。

家畜と愛玩動物

「家畜」という表現が「人の生命維持活動のために利用する」という要素を含んでいるのと同様の構造を持ちつつ、その奥にある必要性が全く異なっています。

家畜に対する捉え方は「生命維持」という「全ての動物が何かしらの形で他の生命を犠牲にしている」というものを合理化するということから来ていますが、愛玩動物という捉え方は、必要性自体はなく、「ただ人間の感情のために利用する」というようなところから来ています。

その意図するところが、「寂しさを紛らわせたい」とか、「可愛がりたい」というものなので、純粋な生存本能ではなく情報的で感情的な目的が奥にあるという感じです。

しかし構造上、そのような形であっても、実際に愛玩動物とされる動物とどのような態度で接するかは千差万別であり、「寂しさを紛らわせたい」というような意図から始まったとしても、最終的にはその動物を通じて慈悲にたどり着けば良いと言うような感じがします。

おそらく慈悲が芽生えていくに従い、愛玩動物やペットという表現に違和感を感じていくでしょう。

一層やさしくなること

命あるものと意志を伝達しあうこと

どのような動植物であれ、命あるものとは意志を伝達しあうことが出来ます。一種の、というよりそれが本質ですが、コミュニケーションということはそういうことです。相互の意志の伝達であり、一般的には言語表現とされていますが、それだけとは限りません。

そこでコミュニケーション能力ということを考えた場合、意志を伝えるという点と、意志を汲み取るという点が考えられるでしょう。

その方法論として言語しか無いというのは少し短絡的です。

人と人との間でも、態度や行動や、はたまたプレゼントなど、様々な手法で誰かに意志を伝えているはずです。

同時にそのようなものを読み取って、非言語であれ相手の意志を受け取っているはずです。

それが人間の間でもできる、ということは、相手が動植物でもできるということです。

そこで、「では植物に算数を教えることができるのか」というようなことを言うような人がいますが、そういうことではありません。

互いに感じることができるのだから、伝えることにばかり躍起にならずに、目の前の生き物が発している意志をしっかり汲み取るという方向も重要になってくるでしょう。

面接でも営業でも、相手の立場や都合を考えないと、自分の何を伝えればいいかもわかりません。

それを聞いたところで、「何の役に立つのか?」と思われてしまっては、本来の意味からすれば何をしに行っているのかわかりません。

相手は世間一般の概念ではなく、自分の両親や先生でもなく、取引の相手です。相手の役に立たないことは、いくら伝えても意味がありません。

伝える前に相手の意志を汲み取る、その訓練は、やがて人間だけでなく、様々な生き物が対象であっても活きてくるようになります。

むしろ生き物だけでなく、それが表現という名の芸術であっても、何かつかみにくいような、それでもすでにある観念を汲み取るという局面にも、やがて能力が目覚めてくるでしょう。

家畜、愛玩動物、およびその同族 曙光 286

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ