内容の解説は無用

内容の解説がありがたい場合もあれば、「内容の解説は無用」という場合もあります。

そんな内容の解説は無用であるという場合の最たるものは、ユーモアや笑いの類ではないでしょうか。

そうしたものは、解説された瞬間に芸術性、侘び寂び、奥ゆかしさが消えるというのは少し前にも触れていましたが、地域文化的な差ということなのか、地元京都、とりわけ洛中ではタブーである「そうした洒落っ気の部分を私は気付いていますよアピール」をする人がちらほらいたりするので困りものです。

「まだ映画を見ていない人のために内容、特に核心部分については触れない」というような配慮と同じように、「侘び寂びを台無しにしないために、気付いていても言わないのがマナー」ということにはなっていないのでしょうか。

もしどうしても言いたい場合でも「指摘もユーモアでぼかす」ということくらいはできないでしょうか。

ちなみに完全に個人的なことになりますが、僕はこうした方々のことを「ずるむけ」と呼んでいます。

「ずるむけ」で台無し

「ネタバレ」というものを筆頭に、「どうして肝心な部分を意図的に隠したり、触れたりしないということができないのでしょうか?」と思うことがあります。

ずるむけになると、全てが台無しです。

欧米の文の構成は、先に言いたいことの要点と概要を示し、その詳細を展開していくというずるむけのものが多いですが、情緒に訴えるものに関してはそんな論文のようなずるむけ構成は良くありません。

欧米の文の基本形はそれでも、小説等の作品においては欧米のものでもきちんとずるむけないように配慮してあります。

それは意図するところとして「なるべく完全に理解してもらおう」というものと「味わってもらおう」というものの違いがあるからです。

ずるむけの指摘

再度繰り返しますが、ずるむけになると全てが台無しです。

特に「最低である」と思ってしまうのは、「ユーモアや笑いの類」において、そのキーポイントをずるむけに指摘することです。

例えば動画共有サイト等々において「私は笑いのツボ、捻ってある点に気づいていますよ」というアピールなのか、そうした点についてずるむけのコメントをする人たちがいます。

そのコメントに対して大半の人は「そんなことくらいわかっている」と思いつつ、「こいつ寒いな」と思っていることでしょう。

例えばマキバオーのエンディング「とってもウマナミ」について、「太い太い、固い固い、これは全部Z会のこと」などと書いてあった場合、

「寒すぎるぞお前」

と思ってしまわないでしょうか。

こんなことを例に出して改めて言うということ自体が頭を痒くしてしまいます。

しかし、「ずるむけ」が何の検討もなく様々なユーモアをずるむいていくので、文化価値保護のためにそれを抑制したいという気持ちがどうしても湧いてきてしまい、このたびは表現せざるを得なかったということで、ご容赦いただきたいところです。

笑う月(一覧)


寒さというものは辛いものですが、当然ながら寒さという感覚は情報空間にも広がっています。その寒さの最たるものは、せっかくの演出を台無しにするというようなものです。「簡単にわかりやすく」ということがもてはやされているのか、せっかくの洒落っ気を台無しにしてしまうような極寒のやり取りがいたるところで繰り広げられています。

耐え難き極寒

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