人の尊厳と可能性
本投稿で「雑記」400投稿目となりました。ということで、より身近に、そしてより深く雑記らしい雑記を書いていこうと思います。 最近「プロ意識が欠如している」というか、「もうちょっとしっかりしろよ」という人によく出くわします。 まあ職業というものをどういうふうに捉えているのかによりますが、たいてい「お金のため」とか「親に半ば強制されて」等々嫌々その仕事をしているという人ほどプロ意識が欠けています。 例えば先日会った「母(小脳出血後に身体障害者となりました)を担当する脳神経外科医(手術を担当した人ではありません)」は、何
ドラえもん的視点
ふとドラえもん誕生の時の藤子・F・不二雄氏を思い出したのですが、その誕生の時の発想やマンガ自体が「現代の哲学がようやく追いついてきている視点」であることに気づきました。 大きく分けると ドラえもん誕生の時のF先生の思考 「タイムマシンがあったら未来の自分からアイデアをもらってくるのに」 という点、そして 「ドラえもんの世界自体がパラレルワールドであるということ」です。 前者はやや大乗仏教的です。 後者は「量子的な重なり合いの解釈」として現代の哲学でようやく追いついてきた考え方です。 ドラえもんというものが普通の社会
現実を無視する
「なんとかなる」の続編です。 それは「現実を無視する」です。 「現実が変わらないのであれば困る」ということになりますが、その意見は自我の意見です。現実を変えるために「なんとかなる」と思い込もうとして、安心したフリをするというのは誤りです。 「なんとかなる」と心底思って安心して意識の向きが明るくなったのに、現実を確認してまた騒ぐということを繰り返してはいけません。 なので、より厳密に言えば、「なんとかなる」の状態になったら、不安・恐怖を伴う思考や妄想を無視する、かつ、現実を無視するということです。 「現実を無視する」
なんとかなる
「なんとかなる」 これは僕が17歳くらいの時、父の事業破綻の影響が家庭内にも本格化し始めていた時、母が買ってきた招き猫のような置物に書いてあった言葉です。 「なんとかなる」 うん。いい言葉ですね。 ということで、なんとかなるということについて、自我とバトルを繰り広げてみましょう。 「なんとかなるという証拠を見せろ」 というのがアイツこと自我ですね。 なぜですか?なぜ証拠を見せろ、ということになるのでしょうか? 安心したいからですね。 いつの話ですか? ひとまず今ですね。 「今すぐに安心したい」 ということです。 も
思考や感情と私
思考や感情というものは、ただの反応にしかすぎません。 ただの反応にしかすぎないものを、あれこれこねくり回そうとすると、また反応が起こるだけという感じになります。 しかしながら、ひとまず暗い思考のループなり、不快な感情なりを「何とかしたい」と思っているからこそ、それを弄くり回そうとするという構造は理解することができます。 反応をしないでおこうとしても、結局反応をしていないフリをするのがオチです。 本質的には、「どうするんだ?」という問いに対しては、「どうするとかではありません」というのが回答です。 「どうする?」とい
既にあるものと心
無限にある既に形成された状態、そうした混沌と心について触れていきましょう。もちろん、ここで触れることは通常の思考では意味不明のように見える可能性もあります。そして、あえて証明の証明のようなことはパスしていきます。 まずこの空間は、いまただ単にあるものがあるという状態です。 それはこの瞬間に確定しています。同時に、時間というものもあくまで自我が「再生」の如く捉えているだけになります。 この心はただの認識する働きです。受け取るだけです。 どの視点を通じて捉えるのかというところで、通常、自我というものを通しているように見
困難を乗り越えることについて
「困難を乗り越えること」についてでも触れていきましょう。いきなりですが、困難は、困難を欲した時にしか生じません。「何かしらの困難を乗り越えることで、何かを叶えたい」というものであっても、「こんな困難はコリゴリだ」という場合でも、いずれにしても、それらは「作り上げれたもの」にしか過ぎません。 困難というものは、それを支える「因」と「縁」が無いと生じません。ということで、困難というものも、「今、形成されているもの」です。 この因縁は、世間一般に捉えられている因縁、つまり「原因と諸条件」よりは一段階抽象的なものとなります
許せない相手を許すこと
新約聖書をはじめ、「相手を許しなさい」というようなことがよく言われたりします。自分のために相手を許しなさい、むしろ相手に感謝をしなさいというようなことまで言われたりします。ただ、巷にあふれるものは、結局聖典や偉人の言葉の引用ばかりで胸にも頭にもスッキリ入ってきません。ただのゴリ押しです。 普通の感覚でいくと、何でもかんでも相手を許していたら「人を傷つけたやつがやったもん勝ちじゃないか」ということになってしまいます。なので、到底受け入れられません。 ということで、こうした許せない相手を許すことについてでもふんわり書い
「思い込みを外す」ということ
「思い込みを外す」ということについてでも触れていきましょう。世の中ではいたるところで「思い込みを外しましょう」ということが言われたりします。経営論を始め、メンタルケア的な分野、人生論的なところまで様々なところで、思い込みを外すというような点について語られています。 ただ、「思い込みを外す」ということについて、世間的な目線で近視眼的に捉えてしまうと、本当の意味での「思い込みを外すこと」は難しくなってしまいます。 無理をしたり、抑え込んだり、あげく洗脳されたりというようなことにもなりかねません。 思い込みを外すには、ま
人生で一番良かった時期
若者をつかまえては「人生で一番良かった時期はいつですか?」というような質問を投げかけ、何かしら回答をしようものなら「過去を振り返ってはいけない。『今』と言わなければならない」というようなことを繰り返している体育会系の人がいました。 その脇で一連のやり取りを数回見たことがあるのですが、毎度毎度、「別に『人生で一番良かった時期』というものは、それぞれの時期でそれぞれの良さがあるのではないか?」と思ったりしました(というより質問自体が根本的に過去形ですけど…というのは置いておきましょう)。 とりあえず今が最高だと言わねば
「曖昧な記憶」とパラレルワールド
「曖昧な記憶」とパラレルワールドについてちょっとした思考実験的な遊びをしてみましょう。哲学とは本来こうした思考の遊びです。 パラレルワールドとは、並行世界、並行宇宙といったようなもので、単に「並行して存在する別の世界」というような感じです。定義付けとしては「時空」等々、様々なものを絡めることができますが、SFマンガ的にシンプルに、枝分かれした「自分の人生の並行世界」程度に考えていきましょう。 「曖昧な記憶」というものはたくさんあります。語の定義を忘れたとかそういったものよりも、自分の経験であるのに何となく「あまり思
苦悩を縦横無尽に展開
思考がループする時は、基本的には情報不足や意志決定の気力不足が影響していたりします。決めるための情報が不足しているとか、あと一歩の思い切りの力が出ない、というようなものです。 堂々巡りを脱却するため、普通はそうした面でなんとかしようと思ってしまったりします。 また、とりあえず思考が働きだしたら「ストップ」と口に出したりして、思考ループによる気力の浪費を防ぐというような方法が勧められることもあります しかしながら、何かしらの苦悩、苦悩から起こる思考のループを脱却するということに関しては、もっと良い方法があります。 苦
空想による発火
ぼんやりと月を観たりしている時などによく空想による発火が起こったりします。 離人感を伴うような感じですが、心地よさを伴います。 情報空間が広がり、四次元的な移動もできるような感覚です。 それはぼーっとしている時、突然起こります。 手というものに関する無限にも近い空想 例えばですが、月に手をかざした時、手というものと手を動かすということについて、無限にも近い空想が広がっていきます。 当たり前のように手を動かしていますが、進化論が正しいとすれば、手が無い生き物だった頃の遠い先祖が、手というものを出してみようと思った意図
合意と具象
相手の合意を必要とする場合、抽象的なことであっても具象化せざるを得ないという場合があります。 様々なことをわかりやすく伝えたいというのはやまやまですが、そんなふうにどうしても相手の合意というものが要るとなれば、本質とは少しズレたところで示さざるを得なくなります。 しかしながら、抽象的なまま語られると譫言のようにしか感じざるを得ない場合もあります。正しいのですが、時にカルト的になってしまうというような感じです。 相手の納得を得るということになれば、相手のレベルにある程度合わさざるを得ません。ただ、そうして落とした抽象
個人的な満足こそがすべて
「自己満足」という言葉がありますが、どうしてもその用法としては、社会性の欠如の指摘のような側面が含まれています。しかしながら、一応本質的には「個人的な満足こそがすべて」という感じになっています。 世の中では様々な「こうした方がいい」というようなアドバイスがあります。そしてもちろん相手には相手の都合、その領域にはその領域なりの都合があります。 しかしながら、たいていのそれらは「誰かが決めたルールに従うならば」という仮言命法的な要素が含まれています。 そしてそうした領域、そしてその領域でのルールや王道が常識的に扱われて
偏見を解く過程としての混乱
「混乱」というと「なるべく避けたいもの」として取り扱われますが、見方によっては偏見を解くための過程としてのプロセスであるという場合もあります。 何かに抵抗する時、そこに執著があります。手放したくない思い、考え方、自己都合等々が含まれています。それはそれで一つの側面として、ひとつの選択の可能性としてそのままでも良いのですが、「絶対視するほどのものかどうか?」というところについては怪しくなってきます。 そこに気づいた時、混乱が起こります。その混乱は、保持していた考え、理解が、より一段階高いレベルになろうとしている時でも
大いなる自己肯定
厳密には「大いなる自己肯定」の肯定の対象は自己ではないのですが、それ以外に近い言葉がないので致し方なく自己と表記した上で、大いなる自己肯定について触れていきます。 端的には「~から」という理由づけのない、根拠のない自己肯定のようなものです。 自己中心的な視点からのスタートし、より全体へと視点が広がり、また逆流し、最終的には自己に収束していくような「意識や精神レベルの変遷」と「自己肯定感というようなものとはまた違った大いなる自己肯定」について触れていきます。 ― 「名とすべて」「虚しさの先にある安穏」の時と同様に雑記
重圧の転嫁
罪と罰のラスコーリニコフのように、一種の重圧の転嫁が起こることがよくあります。そんな20歳前後の時の男性の心理状況を扱った作品は、小説や楽曲にも多くあります。 特に近代化してからが多いですが、それ以前の作品にもちらほら垣間見れるそれは、時に特定の思想を持ったものや自己顕示欲を満たすことを目的とした人に利用され、時に脳筋体育会系の優越感に利用されたりもします。 重圧の転嫁の矛先として特定の思想の方に誘導する、ということもあれば、そうした「問い」を持つこと自体が「社会に適応できないことへの言い訳だ」ということで脳筋達に
偶然への気付きと必要なき裏付け
生きている中で起こる全ての出来事には偶然の要素が含まれています。この偶然とは思考の範囲外、自我による想定や判断の範囲外という意味くらいに考えていただければ良いでしょう。 自分が努力したからとか、努力しなかったからとか、才能があるとかないとかいった印象はアイツこと自我の判断であり、すべての要素を分解すると偶然要素がふんだんに含まれていることに気付きます。 また、願いのようなものが叶っているかいないかという点について、「特定の何か」に限定して「考えて」みると、叶っていないような気にもなりますが、抽象的な幸せに関しては、
「無知の知」による迷宮からの脱出
一度哲学的領域に入ってしまうと、ソクラテス的な迷宮に入り込んでしまうことがあります。それは「無知の知」のような一種の納得せざるを得ないようなものを通過すると、社会生活等々がままならなくなってしまうというような現象です。無知の知そのものは、それはそれで概念としての空性であり、ある種の理として「それそのもの」という感じになりますが、そうした正しさがあると、混乱から迷宮に突入してしまうことがあります。 これは端的には、「定義できないのだから何も示し得ず、示し得ないのであれば、それらをもって何かを示すということは成り立たな
知足と空性と「充足への移動」
知足、「足るを知る」について触れていきます。その意味について至るところで様々な解釈がなされていますが、まあそれだけ抽象性があるということになるのでしょう。ただ一応ここでは、仮観の内にある俗物の解釈を超えて智慧により「足るを知る」を捉えていきます。 つぶやき程度ですが、知足について「吾唯足るを知る」というものは、吾唯足知・吾唯知足と書かれたりします。この表現は国産のものであると考えられるので、レ点の問題だけだと思っています。知足は、大乗の仏遺教経における「知足之者」や「老子」などで出てくるものですが、老子の「知足者富
ゼロの錯覚
求めても得られない苦しみである求不得苦には様々な要因がありますが、「ゼロの錯覚」こそが求不得苦をもたらす最たるものであり、無駄な苦しみを生む要因の一つとなっています。大切なものとの別れからくる苦しみである愛別離苦についても同様です。 「ゼロ」は、数学的には偉大な発明であるものの、この心にとっては求不得苦や愛別離苦をもたらす要因でもあります。 不足感の正体はゼロを想起するというところにあります。 「ゼロ」という概念は数学的空間の中にだけあり、現実においては、記憶の連続性の中での記憶や想像とのギャップがあった時に想起さ
意識を先に置いたり分散させること
車の運転と同じように、視点は遠い方が安定し、またたくさんの方向をちらほら確認している方が安全に歩んでいくことができます。 あまりに手前の方ばかり見すぎると、感情が大きく揺れ動いてしまい、まさに動揺してしまいやすくなります。 既に無意識的動作となっている運転動作と同様に、日常のすべてが「無意識的有能」以上の領域になると、憂いはどんどん減ってきます。ただ、リスクがすべて消えるわけではないということを踏まえての「憂いのない運転」のような感じになります。 日常の9割以上は、遠くに視点を置くだけで基本的な感情の動揺はなくなり
心とは何か
「心とは何か?」ということについて様々な議論があります。しかしながら、あまりに定義し難い対象であるため、どのレベルで定義するかによって、いかようにも定義できてしまうのが心です。 「心とは一体何なのか?」 その答えを示すのであれば、端的には次のような定義を示すことができます。 「受け取る働き」 「認識する機能」 「受け取る点」 そしてその上で、なぜそのように心とは何かという問いに対するひとつの捉え方をするのか、そして、そうした場合、何が見えてくるのかという点について、哲学的にかつ一般的に示しつつ、最後は智慧により語る
生は浮きたる漚のごとく
形として見えるものでありながら、実際にあるとまでは言い切れないものであり、かつ「自らの意志」があるように見えながら流れの中にあるものということで、生とはまさに浮きたる漚のごとくという感じになりましょう。 「自らの意志で頑張った」ということも朧げなものであり、「一生懸命がカッコいい」というような周りの評価から形成されたという点もありつつ、そんな「一生懸命がカッコいい」というような評価そのものもどこかから生じたものであったりします。 そして、そうしたことを伝えた人も、言葉も、概念も全て流れの中でまとまりとして形成された