真面目と怠惰というコントラストがあります。真面目は良くて怠惰はダメだとかそんな感じですね。
「真面目だけど不器用」
とか
「真面目でいい人なのにうまくいかない」
ということがよくあります。
もちろん真面目なことはいいことですが、真面目なようで実は真面目っぽさにかこつけた怠惰であることがあります。そうなるともったいなかったりしますので、逆説的な怠惰について触れてみます。
真面目で誠実というのはすごく良いのですが、それに甘んじることで本質から目をそらしているだけだったりすることがよくあります。
なので「いい人止まり」みたいな感じになってしまったり、真面目にやっているのに不器用でうまくいかなかったり、自己犠牲に走ってしまったりするというのはちょっと違うような気がします。
まあ器用さに傲慢になっているよりは随分といいですよ。
でも、世間で言う真面目さに甘えて大切な部分から目を背けているということもありますので、それをぶち破って見るというのはいかがでしょうか。
前半はちょっと厳し目かもしれないですが、真面目と怠惰について書いていきます。
「真面目」という鎧
社会に出るとよくありがちですが、例えば営業部署に配属されて真面目にやっているのに一向に営業成績が伸びない人がいます。
でもすごく真面目だったりするんです。
もう事前準備から名刺交換から言葉遣いまで、マナーマニュアルに書いてあるくらいの感じだったりするのですが、本来の目的である「お客に物やサービスを買ってもらう」というところは、あまり叶っていないという感じの人です。
電話件数とか飛び込み訪問件数を伸ばすのは真面目にやるんですが、肝心要の成約には全然至らないという感じで、真面目なのにうまくいかないという人です。
で、それはある種真面目であるということになりますが、別の側面から見れば「すごい怠け」であったりもします。
自分の考えているやり方・方法では、あまり成約に至らないということが結果として出ているのに、変えるのは嫌で、変えようともしないということですから。
いわば、自分で勝手に基準を決めて、勝手にその中で「真面目」にやりくりしていればそれでいいという怠惰という感じで捉えることもできます。
でもそんな中、真面目さとは対極にあるようなゆるい感じの人がドカドカ成績を上げていたりしていたりします。
それを傍目で見ながら、「自分は真面目にやっているのに…」とすら思ってきたりしているはずです。
でも、「真面目にやっているのに」と思いながらも、自分がまだ許容できる範囲のことしかやろうとしません。
一応真面目にやっているので、上司としては温かい目で見守っていたりもしますが、裏を返せば真面目さで装った怠惰であると解釈することもできます。
でも、真面目なのであまり厳しく言うのも気が引けます。
それに甘んじているということもまた怠惰です。
真面目を言い訳にした怠惰
で、仮にすごく叱られたとしても、今までどおり真面目にはやりますが、自分の限界を越えようとはしません。
つまり、真面目さでごまかしているということです。
本質から目をそらし、何かをやるのは嫌だというのを真面目という鎧でガードしているにしかすぎないという感じです。
さらに洞察してしまうと、「真面目にやっているんだからツッコめないだろう?」という邪念にすら取れるということになります。
言葉遣い一つとっても、本質を見ようと思えば見ることができます。真面目に、完璧にキレイな敬語を話せたとしても、かなりフランクに話している同僚などがいたりもします。それで自分はだめで同僚は成績がいいのであれば、それは「いきなり相手を不快にさせるとまずいので、最大公約数的に入り口をらくにするためのものくらいだ」ということが見えてきたりもするはずです。
それを完璧にこなしたところで、この仕事上得られるのは「入り口が楽になるだけ」という程度です。
でもそれを新入社員の時に大切なこととして学んで、真面目にやらなければならないと思ったから自分はやっている、と。
で、それだけじゃダメだと薄々気づきながらも、自分には真面目しか無いという言い訳などを用いてそこからは脱却しようとしない、という感じであればそれは、真面目を言い訳にした怠惰でしかありません。
本当に真面目なら、その真面目は違う所で出る
本当に真面目なら、その真面目は違う所で出るはずです。
成績を向上させることに対して真面目になれたのであれば、自分のやり方には不足点があるとか、根本からずれていると気づくはずです。既に結果は出ていたりするので、すぐに分かるはずです。
学校の成績でも、いくら真面目に努力しても伸びない場合、学習方法が間違っていると言うか非効率であるということを疑わねばなりません。
もちろん学校の成績を上げることやその価値についてはまた別の問題になりますが、ここでも疑うこと無く「慣れ親しんだこのやり方がいいんだ」というのは傲りであり怠惰であり、執著です。
話が通じない場合にどうするか
まあ例えばですが、目の前に全く知らないおじいさんかおばあさんがいて、その方に自分の話を理解してもらうことができない場合、ナチス級の拷問にあうことになっているとしましょう。
その場合でも「じゃあこれでフィックスで~」とか「アサインします」とか「かく語りき」なんてなことを言うのでしょうか?
まあ、内輪の共通認識を作って共同体意識を作りたいという中、その癖が出てしまったとか、外向きにそうした言葉を使って「プロなんですよ」と権威性を主張したいのか、それとも「かっこいい自分」の演出なのかは知りませんが、そんなことをしていると、即拷問行きです。
「真面目にいつも通りのパターンでこなす」ということに縛られていては、クリアできません。
で、少し話が逸れてしまいましたが、そんな感じの時には、必ず可能な限り相手に理解してもらうことを最重要課題として取り扱い、どうすればいいかを真剣に考えるはずです。
いつも通りの真面目さだけで通じないとすれば、知恵を絞るはずです。絵が下手くそでもイラスト画で示してみたりとか、わからないなりにも何かと創意工夫をしようとするはずです。
許されるのならば、それをクリアできそうな人に聞きに行ったり、書籍を漁ったりもするはずです。
そういう真面目が本当の真面目です。
本気でやればその本質は見えてくる
マニュアル通りにやってみるということであっても、本気でやればその本質は見えてきます。
「ああこの部分はいくら頑張ってもここ止まりだ」
という感じです。
そして、「これはここまでだから、多分別のことをやらなければ次には進めないんだろうな」ということに必然的に気づくはずです。
そしてさらに、本気で考えて本気でやれば向き不向きすらわかってきます。「自分には向いていないなぁ」ということすらわかってくるという感じです。
承認は欲しいが受け身
まあ相手の立場など考えず勝手に自分で基準を決めて、自分は真面目にやっていると居直っているにしかすぎません。
で、その割に、社会からの承認は欲していたりします。
「承認は欲しながら自分で勝手に決めた基準にだけ真面目で受け身」だという感じです。
「世間的な基準を満たしているこんなオレに誰か惚れてくれないかな」の世界です。
「いい人止まり」なんて言われている人は、結局真面目で害はない程度でありながら、何かから目をそらし、受け身になっているという感じではないでしょうか。
真面目に事実を淡々と話すというのもいいですが、それで何だか緊張が走ってしまうのであれば、スベるのを覚悟でユーモアを入れてみるということもいいはずです。
でもそれにはスベって恥をかくというリスクがあります。うまくいけば場は和みますが、下手をすると寒気が走ります。
で、そうしたスベることへのリスクを回避するという点が「何かから目をそらす」という点の一つです。別に爆笑を勝ち取る必要はありません。でも、重い空気を軽くして和んでもらうということくらいはしてみてもいいのではないでしょうか。
さんざん「あなたはいい人なんですが…」と言われ続けてきたのに、そうしたところを棚上げしていたりします。
棚上げはしながら、「求められていることを真面目にクリアしているのだから、誰か評価をしてくれ」と嘆いています。
でもそれは、ある部分はクリアしていてもある部分はクリアしていないということになります。
その場で相手の手を握ることなりが大切なのに、「年収があと100万円上ったら、向こうから来てくれるかな」なんて思っている人がモテるはずがないのと同じです。
限界を超えた時にだけもたらされる財産
そのような感じで、真面目を装って実は怠惰であるということは結構あります。
もちろんずる賢く生きるよりは随分と良いことですが、時に真面目を理由にしてリスクを回避し、新しい世界を覗くことが制限されていては、不満だけが募っていきます。
「自分は真面目にやっているのに…」
なんて考えていても、真面目を理由にして大切な何かから逃げているだけということがよくあります。
以前、「生きることに不器用な人たち」で少し触れていましたが、「自分たちは言われたとおりに真面目にやってきたのに周りの対応は何だ!」となっている人たちは、最も不器用であり、大切な何かから逃げ、自分たちで新しい世界を作ることはせずに、レールに乗っかっただけで、レールに文句を言っているのです。
でも、もし自分が本当に真面目を誇りに思っているのなら、もしくは真面目だなぁと思っているのなら、その真面目さは大切にしながら、真面目を言い訳にしないという姿勢を持ったほうが賢明です。
そうして実は怠惰である「逃げ道としての真面目」ではなく、本当に真面目さが発揮された時、その時には何かしら限界を超えることになります。その時にもたらされるものは、人に評価されるようなものではないかもしれませんが、確実にその人にとっての財産になります。
以前どこかで触れていましたが、ある時、繁華街でビラ配りをしている大学生と思しき人を観察していました。
もう手が震えてるんですよ。
それを見て一部の通行人は鼻で笑ったりしていました。
でも、僕はそんな彼を応援していました。
もしかすると初めてのアルバイトかなんかで、命じられるがまま人通りの多いところでビラ配りとかしていたんだと思います。
おそらくそれは初体験のことであり、今までにしたことがないことです。
受け取りを拒絶されたりもするでしょうし、全然知識がないのに店に関するいろいろな質問をされたりすることもあるでしょう。
そりゃ恐いですよ。
でも震えながらでもビラ配りをしているんです。
何だかカッコよくないですか?
でももちろん社会的な評価は別問題ですよ。
他のスタッフは来店まで導いているのに、自分は真面目に頑張っているからといってボウズで、でも給料はもらうというのは評価の対象になりません。
ただ、第1段階として、逃げずにやってみて経験をしたというところはその人にとっての財産です。
でも、しばらくはそれで許されたとして「真面目にやってるんですが…」となってくると、それは怠惰の領域になってしまいます。
そうした言い訳をせず、その後気持ちが折れたりしながらも試行錯誤をして例えば来店まで導けたとすれば、その経験はすごい財産です。
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