正しく評価されることが珍しい人

多くの者は、何かある方向にひどく不正なことをすることなしには、よいこと、偉大なことに熱中することができない。これは彼の持ち前の道徳である。 曙光 404

偉人と言われるような人、偉業を成し遂げた人、そうした人たちは概してマイノリティです。

育った環境が特殊なものであるというような原因は、あまり関係なく、ひとまず変な人だらけです。

勤め人をしようと思っても、人格に問題があると烙印を押されるような人ばかりでしょう。

しかしながら、以前に何処かで何度か触れていますが、マイノリティだからと言って、そのまま「すごい人」であるわけではありません。

で、「正しく評価されることが珍しい人」ということを語る前に、正しく評価されるためには「正しく評価する側」の存在が必要です。評価というからには、そういうことになってしまいます。

ということでマイノリティについては以前に触れているので今回は、「正しく評価する側」の存在についてでも触れていきましょう。

「正しく評価する側」の存在

勤め人をしている人たちのだいたいの愚痴はこぞって「自分は正しく評価されていない」というものです。

「これほど頑張って尽くしているのに自分は正しく評価されない」とか「色々と我慢して奮闘しているのに評価が乏しい」というような感じです。

そこで、よく言われるのが「考えが甘い」ということだったり、雇う側の都合と雇われる側の都合が一致することはないというものだったりです。

まあそういう側面も一理はありますが、まず第一に考えたいのが、相手に期待をしすぎだという点です。

特にすごく従順で学校なんかででも比較的真面目にやってきた人からすれば、テストの点を取ったことがイコール評価であるという考えが染み付いています。

評価の基準はバラバラ

で、学校なんかはそういったわかりやすい側面がありますが、企業においては、企業の風土によって、何を評価の基準にしているかがバラバラというのが実情です。

儲けることしか頭にないような社長のもとであれば、まさに数字が命でしょう。売上を上げたり、利益が出てなんぼの世界です。それ以外の要因は関係ないと言っても過言ではありません。

あまりにそれにとらわれている拝金主義の場合は、詐欺のような営業であっても関係ありません。正しくルールに沿うことなど評価対象に入らないというのが本音です。

倫理的に正しいのは正しくルールに沿って仕事をしている人ですが、評価の基準自体が「費用対効果が良い従業員」つまり安くで私腹を肥やしてくれる奴隷なのです。

そういうわけで、相手に期待しないことです。

嫌ならば辞めて別のところに移れ、とすら思われているでしょう。

ということで、辞めた方が正解なのです。

いくら正しさを主張しても、相手の作った会社、相手のフィールドです。

「内部告発を起こして…」ということもいいですが、おそらく労力には見合いません。オーナー社長の会社なら、いいところ単に会社が潰れて終わりです。割に合いません。

そうしたことをするよりも、他の会社に移るか、創業した方が理に適っています。

また、きちんと仕事をするよりも、可愛い人だけを可愛がるという人もいます。

同じスポーツをしていた部下を可愛がるという感じで体育会系ではそれが顕著ですが、そうでなくても仕事ができる人より顔がいい人、好みのタイプの異性ばかり贔屓する人がいてもおかしくはありません。

相手に期待しすぎるな

そういうところで正しさを主張しても、ほとんど意味がありません。公務員などなら、また少しは違ってくるのかもしれませんが、民間企業ならそうした差別があっても何ら不思議ではありません。

会社運営というものを合理的に考えれば、できる人を出世させたほうがいいはずですが、同族企業などならどうしても身内が能力に関係なく勝手に役員になったりします。しかしながら、株式会社などの仕組み上、株主のものですから仕方ありません。

そういうわけで、「相手に期待しすぎ」という感じです。

本当に平等に評価してくれる職場に当たる確率は相当低いと考えられます。宝くじの一等賞くらいの確率、とまではいきませんが、かなり低い確率です。

そして運良く、良い直属の上司などに当たったとしても、大きな企業であれば異動やなんやで、そんな環境は崩れていきます。

正しく評価されることが珍しい人 曙光 404

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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