基本人格は小学生の時から変わっていませんが、Z会の発達に合わせて、怒り多き思春期を過ごしたりしました。
でもその時に出会ったからこそ「こうなるべきである」というような倫理の照準がうまく設定されたような気がします。
自我の領域として、情報が収束して形成される人格において、「こうなるべきである」と思った人格、象徴は、hide氏です。それは中学生の時から変わっていません。
尊敬する人というのは特にいませんが、もしいたとしても、シッダールタのような聖人とされるような人たちは、当時の自分からすれば遠すぎてリアリティがありません(今でも「先人」くらいの扱いで尊敬というものはありません)。
日常を過ごすにあたって、社会の中で生きていくにあたってどうあるべきか、というところで、一種の目指すべき人物像がhide氏だったという感じになります。真面目一本でいけば杉原千畝氏などもその照準になったのでしょうが、怒り多き中では、そうした方向では未消化のものが残ってしまう気がしました。
こんな事を言うのも何ですが、hide氏については、楽曲やファッション等々その全てにおいて大好きというわけではありません。好きなものもあればイマイチなものもあります。それは感性の面で致し方ありません。
ただ、どこを切り取っても、それほど好きなものでないようなものであっても、どこかしらから滲み出る彼の人格にいつも惹かれてしまいます。変な感じですが、感性の面で100%合うものでなくても、すべてのものにおいて彼の人格が滲み出ている部分には惹かれるというような感じです。
彼が、「貴志真由子氏」との交流、骨髄バンクドナー登録を売名行為としてマスコミに書かれた時、世の中のカス構造を学んだような気がしました。良い大人もロクでもない大人もいるということがくっきり見えたりもしました。
そんなことがあって怒りが起こったとしても、それでも底抜けに明るい曲を出すという姿勢、もちろんそれとは対極の曲も出すという姿勢、また、ときに真面目に、時にふざけすぎるというそれが一種の倫理の照準となりました。
怒りも悲しみも全部ひっくるめるような、人に寄り添いながら、それでもたまには少しズルくいきたいというような気持ちを否定しないような、そんな肩の力の抜けた感覚が、相反するような思いを上手くまとめてくれるような、そんな気がしました。
根本的に「何事も気にならない」という雑な人が自信を持ったり何かしらを「できる」というのでは参考になりません。
hide氏のことを思い出すたびに、怒り多き時に彼という存在がいてくれて良かったというようなことを思います。そして、目指す倫理の照準となったのが彼で良かったと今でもたまに思ったりします。