笑いの素晴らしい点のひとつとして、「印象の正負を逆転させる」という点があります。その質にもよりますが、感情が激しく動く出来事というものは、解釈しだいで悲しみや怒りといったものにもなりますし爆笑の対象にもなりえます。
本来出来事というものは、それそのものは中性です。
ストレス耐性という言葉がありますが、耐えるということだけがその乗り越え方ではありません。笑いに昇華する能力が高まれば、印象の正負を逆転し、耐える必要のないものに変化させることができるようにもなりえます。
笑いに昇華する能力
友人の一人に「離婚後、元妻側に息子たちがいつつ、本人は新しい家庭を持っている」という感じで暮らしてる友人がいます。
結構前の話になりますが、聞くところによると比較的最近元妻が失踪し、彼の元妻側の子どもたちは、祖父母と兄弟だけで生活しているというような状況に陥っているようでした。
そして当時、繊細な方の兄は不登校となっていたようでした。
新しい家庭があるため引き取るということも難しく、という中、最低限の配慮として毎日のように電話だけはしていたそうです。
しかしながら精神の歪みはそうそうどうにかなるものではありません。
「どうしたものか?」
と友人が言うので、
「君はまだ一つやり残していることがあるぞ」
と、一つのポイントだけ伝えておきました。
「おまえはおもんない。もっと笑いを磨け」と、うちの弟に言ったのは君じゃないか
中学生の時からの友人なのですが、彼と僕が中学生の頃、彼は小学生だったうちの弟に「おまえはおもんない。もっと笑いを磨け」という強烈なことを言って弟を目覚めさせたことがありました。
当時弟は相当のショックだったようで、その後数ヶ月本気で「面白さとは何か」ということを研究していたようです。
それはそれ自体が半分ジョークのようなものでありながら、様々なストレスに晒されるであろう今後の人生をうまく切り抜けるための金言でもあったというようなことを、以前ふと思い返したりしました。
なぜならその当時弟は、若干「最近同級生とのコミュニケーションがうまく取れない」というようなフシもあったように見えていたからです。
解釈しだいで精神的負荷としてのストレスではなくなる
だいたいそれが強烈に悲惨なことであっても、よほどのことでなければ笑いに昇華するということができます。
例えば上司がアホ過ぎること、上司が鬱陶し過ぎることといったことでも、話の構成などによって、単なる暗い愚痴ともなれば笑い話にすらなります。
つまり、面白いふうに捉えるということ自体が、「笑い話ができることによって得ることができる人からの人気」というものを脇に置いておいても、個人的なストレス回避ということにつながるということになります。
ストレスと呼ばれる精神的負荷は、本来概ねその場で一度きりです。しかし、「嫌だなぁ」という記憶が何度も繰り返されると思い返すたびに負荷がかかり、体としては緊張が走ります。
そんな中、「悲惨なことではあるが、思い出すたびに笑ってしまう」という感じに変換されるとそれは精神的負荷としてのストレスではなくなります。
「ストレス耐性」よりも性質を変化させる方が楽
ストレス耐性というと、耐久力的にばかり捉えられてしまいますが、固定的なダメージへの耐久というアプローチではなく、根本的なダメージ自体の性質を変えてしまい、弱体化させたり正負を逆転させてしまうというアプローチの方が有効的なのではないかと思ったりもします。
ということで、それを比較的簡単に行うことができるのが笑いに昇華するということです。
なので、「君はまだやり残していることがあるぞ。うちの弟に『おまえはおもんない。もっと笑いを磨け』と言った時のごとく、どう捉えれば面白いかというようなことをきちんと息子にも伝承したらいい」と伝えておきました。
それは物事を根本解決するものではありませんが、非常に大切なことだと思っています。
また蛇足的ですが「『便器を題材にすること自体が芸術というのなら、森ビルをヒーローキャラクターの題材にすることの方がさらに芸術である』というような教育をしなさい」というようなことも伝えておきました。
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お久しぶりです。最近は苦しみというものが失せてとても心地の良い毎日を送っています。
私はどういう人間かと周りに聞くと、よく笑っていると言われます。自分の印象が笑顔に結びついていることを知ると、なんだか嬉しく思います。
しかし、これを羨ましく思っている人もいました。「いいよなあ、そうやってなんでも楽しく思えているのだから」と。物事を悲観的に捉えよ、という今の勤め先の暗黙の了解めいたものが関係しているのかもしれません。
求められるのは、「しょぼくれて真摯に受け止める態度」のようです。落語的な見方は「とぼけたことを考えている」と捉えられてしまっているようです。
私自身「ヘラヘラするな」と言われることもありますが、形だけ他が求める態度を取り繕っても、それに精神が引きづられ、苦しみを無意識に生み出すことは避けたいものです。
私はこの仕事はまだ二年目なのでこの仕事のすべてを理解できていませんが、他の人たちが前述の風潮で精神をすり減らしているのが気の毒でならない今日このごろです。
お久しぶりです。
心地よい日々を過ごされているのは何よりです。
「物事を悲観的に捉えよ」というような風潮は結構いたるところにありますが、悲観的に捉えることで万事解決するわけでもなし、たいていは物事も解決とは逆方向に行く上に、笑いまで絶えて気分も悪いということで、良い風潮ではありません。
その中でも笑いを絶やさないということは非常に良いことであると思います。
そういえば僕も勤め人時代は「何を笑ってるんだ。真剣に考えろ」というようなことをよく言われたりしました。
どうも笑っていると物事を考えていないと解釈されがちですが考えていないわけではないですし、意味のない悲観的な捉え方はまさに意味がないため楽観的に捉えようとしていただけでした。僕としてはそうであるものの、相手からすればそうは見えないようでした。
多少はそうした空気に合わせたほうがいいのかなとも思い、しばらくは合わせてみましたが、良いことは一つもありませんでした。
その時は「どれだけ同調を迫られても、相手に呆れられて放っておかれるくらい明るくいるというのが大切なのだ」ということを思いました。
お返事ありがとうございます。
態度さえ取り繕えばいいというわけですが、それを多くの人がよしとしているのがなんだかなあと思います。態度に自分の精神が引きずられるような気がします。
僕の職業柄相手の感情までもコントロールしたい人が多いのかもしれません。そこまでの都合の良さは僕にはありませんから、柳に風という感じでいきたいです。
悲観的に捉えると、今度はくよくよするな考え込むなと言ってくるので、やっぱり自尊心の向上が根底にあるのだろうと思います。他人が笑顔だと自分の自尊心が傷つき、他人が悲観していると自分の自尊心が上がる。ちょっとかわいそうな感じですね。
「放っておかれるくらい明るくいる」というのはすごく理想的です。自然の明るさが大切ですね。
再度コメントどうもありがとうございます。
どうせなら良い方向へのコントロールを意図すれば良いものを同調することを求めてくる、という場合は、おっしゃる通り自尊心的な問題が奥に潜んでいます。
そうした相手に「コントロールされてしまうかもしれない」という場合は嫌な気持ちが走ります。
しかし、同調せずに思い切り明るくいると、相手が明るさに同調してくるか、もしくは、もっと気分が悪くなって近寄ってこなくなります。
ただ、相手に何かしらの権限がある場合、明るさへの疎ましさから嫌がらせをしてくる場合もあります。
そうした時には、それにすら勝つほどの明るさで相手を覆い尽くすという術もありますが、場合によってはいっそ去ってしまうという方が良いかもしれません。