罪と罰のラスコーリニコフのように、一種の重圧の転嫁が起こることがよくあります。そんな20歳前後の時の男性の心理状況を扱った作品は、小説や楽曲にも多くあります。
特に近代化してからが多いですが、それ以前の作品にもちらほら垣間見れるそれは、時に特定の思想を持ったものや自己顕示欲を満たすことを目的とした人に利用され、時に脳筋体育会系の優越感に利用されたりもします。
重圧の転嫁の矛先として特定の思想の方に誘導する、ということもあれば、そうした「問い」を持つこと自体が「社会に適応できないことへの言い訳だ」ということで脳筋達に優越感を持たれるということもあります。
しかし転嫁も間違いですが、そうした人たちが指し示す社会への従順も本質的ではありません。そして転嫁的な意図だけが全てというわけではない哲学的領域の問いもあります。
見えてくるに従い起こる重圧
この重圧というものは、端的には次のようなものです。
責任がのしかかることを避けたい。自由奔放に過ごすために、保護者に逆らってみたが、実際に自分がその年になる頃に同じように生活の基盤を作ることができるのだろうか。
軽く働いてみたが、稼げた金額の数倍も稼いでいかなければならないようなことが見えてきた。稼げる気がしない。
そして稼ごうと思えば、自由は制限され、嫌な大人に従わなければならないような気がする。
しかし、そうした生活基盤を整えないと、好きな子に好きとも言えない。
まあ現代で言えば、ちょっとバイトしてみた時にもらう金額から考えて、その数倍の金額を稼ぐことが想像できないというような感じでしょうか。実際の社会が垣間見れたものの、逆にその後が想像できないような感じになるでしょう。
そこにモテのこじらせが入るとよりその思いは強力になります。ある程度の基盤がないと好きな子に好きとも言えない、自信を持って「ついてこい」と言えないような感じになるからです。
そして、そうした重圧を感じた時に、マクロ的視点で悪者を仕立て上げ、それに立ち向かうような感じで考えてしまうというようなことが起こったりします。単純には「社会が悪い」と言うような感じで、転嫁をしてしまうということになります。
転嫁の矛先の正当性
そんな転嫁の矛先である社会の不完全性や不平等を正すような視点はひとつの正当性を持つため、そのルートに進んでしまうと抜け出せなくなることがあります。思想を唱える団体に加入などしてしまえばなおさらです。
全くの不合理であるならば、すぐにそこから抜け出す可能性がありますが、一応の正当性があるような感じになっているので、ヒロイズムへの刺激も相まって抜け出しにくくなります。
まあ例えばフリーター文化が悪い、それを作った人達が悪いというような論点です。それは確かにそのとおりですが、そうしたことを言っていても現状は変わりません。
それも一つの近視眼的な視点であり、別に稼ぐにあたっては勤める必要もないですし、フリーターで多少社会を見渡してから創業するということもできます(ただ、なるべく高い視点で社会を見渡すに越したことはないので、短期的にでも普通に正社員をする方が良いかもしれません)。
また資本主義が悪いというような発想にもなりがちです。もちろん資本主義は不完全であり、資本家の都合で作られた論理であり、差別や格差を助長します。しかし、そういったところで、社会全体をひっくり返すというようなことは、いきなりはできません。
不安を持つ人が吸い寄せられる先
世の中では、そんな重圧の転嫁の代わりに宗教に走る人もいますが、一応ポジティブに自由、金銭的恐怖の解消、そして異性への自信を叶えるためにと、誰かを崇拝しようとするというような場合もあります。
「なんとなく自由に過ごしていそうな人」で、自己顕示欲の強い人などがその崇拝対象になりがちです。
「もしかすると自由と資産と自信を得ることができるのではないか?」
という期待なので、裏を返せば不自由や貧困や自信のなさへの恐怖が発端となっていたりします。
ただ、「その人と同じように」ということにはなっていますが、一応「そうなれたらいいなぁ」という感じなので積極的です。
ただ、そうした人が吸い寄せられる先にいる人達は、自分たちの収益や自己顕示欲だけで動いていることも多々あります。なので、期待による気持ちよさはあるかもしれませんが、結局「お客になるだけ」ということになってしまいがちです。そうした意図でやっているわけでもないような人もいるでしょうが、怪しいものもたくさん混じっていることは事実でしょう。
また、何かしらでマネて追従しようにも先行者利益が大きく、同じように追従する人達も多いのであれば少ないパイの取り合いになり、同じようには稼げないということもよくあります。
なので、そうしたものは参考程度に留めるに越したことはありません。
また、こうした矛先は、思想団体の場合もあります。しかしながらそうしたものは、単に加入者の数が欲しかったり、自分の思想の正当性を確かめるために同調者を集めたがっているだけということも多々あります。引っかかるとその手の人にうまく利用されてしまうかもしれません。
構造的な問題の取り扱い
さてこうした転嫁の感じについて、「ハイ!」と言っていれば良いということで過ごしてきた脳筋たちは、紆余曲折を経た人たちを見下してくる場合があります。
ということで体育会系の優越感に利用されるということもよくあります。
しかしそれは、全体的な構造を見渡して乗り越えたとか、そういうわけではなく、単に先輩の言うことを元気よく「ハイ!」と言って聞いておけば良いと思って過ごしてきただけなので、自分の頭で考えたということでもなんでもなく、様々な構造的な問題を本質的にクリアしているわけではありません。
社会に対して疑いを持つことがなかった、不都合なことでも考えることなく従順だったというだけで、優越感を持つようなことでもなんでもありません。
単に、構造的な問題の取り扱いにあたり「考えずにハイと言っておけばよい」という感じだっただけですからね。
転嫁に関する2つの次元
ということで「転嫁」に関しても、実は2つの次元で捉える必要があります。
ひとつは、社会レベルの抽象度による恐怖心と転嫁ですが、もう一つは、より高度な哲学領域になります。
端的に前者は、「責任からの逃げを意図して思想を云々ということになっているんだろう」というようなことになってしまいますが、後者はもっと奥深く、それを考えることを愚かであると思うほうが愚かな領域になります。
後者は、若き日のシッダルタの悩みのようなもので、生老病死に対する消化できない思い、一切行苦に代表される苦の構造に関する哲学的必然です。
転嫁的な意図だけが全てというわけではない哲学的領域の問い、転嫁しようもない「苦しみを伴う問い」という感じになります。
転嫁しようもない哲学的領域の問い
転嫁しようもない哲学的領域の問いは、生に対する問い、苦と苦の消滅にかかる問いなどがその代表例です。
もちろん「社会からの要請、社会的な普通のルートをたどったところで、それでそれが何なのか?」というようなものも含まれます。
しかしそうした問いについてそれを表に出すと、「そんな事を言って社会への順応から逃げているな」というような反論がやってきます。
しかしながら、そんなことを言い返してくる人たちが、生や苦、苦の消滅にかかる問いを乗り越えているかというとそうではありません。
実際に今まで一人としてそうしたものを乗り越えている人と出会ったことがありません。何かしら理由をつけてごまかすのがせいぜいです。
というような一種の悩みが若き日のシッダルタやサーリプッタにも起こったはずですし、そうした問いは、表現は異なれど生きている以上必ずたどり着くような問いです。
誰かが提唱した論理、どこそこの研究結果を元に云々などではなく、生きている今に思考を巡らせると可能性としては常にたどり着くような問いの領域になります。
つまり、転嫁であるものと、転嫁ではないものがあるというような感じになります。
そして転嫁的なものであるならば、視点を上げてより建設的な見方をした方が賢明であるというような感じになります。
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