諸君は自分が何を望んでいるか実際に知っているか?

諸君はあらゆる認識の洞窟の中で、諸君自身の幽霊を、諸君に対して真理が変装した蜘蛛の巣として再発見することを恐れてはいないか?諸君がそのように無思慮に共演したいと思うのは、恐ろしい喜劇ではないのか?― 曙光 539 文末

同じような内容のことを先程書いたので、「諸君は自分が何を望んでいるか実際に知っているか?」についてはどうしましょう。

お金が欲しい人は、お金がもたらす安心感や新しい経験が欲しいと思っているだけで、お金そのものが欲しいわけではありません。

同じように、彼女が欲しいと思っている人は、もしかするとただ単なる○玉の都合や触れ合ったときのふわふわ感といったところでしょう。

「欲しい」の手前には分離がある

こうしたアイツ目線の望みには特徴があり、基本的に「欲しい」の手前には分離があります。分離があって不足感があります。

自分自身が満足していれば不足感はありません。

アイツ目線の不足感やその解消としての望みは、ある種広い意味での自尊心の回復、自己愛の充足が目的になっています。

受け取ること自体には何の問題もない

念の為に言っておくと、欲しいと思って受け取ること自体には何の問題もありません。細かいところで言うとそんなことは常に起こっていることですし、前回の投稿で少し触れていますからね。

極論を言ってしまえば、体温を一定に保とうとしたり、害のある細菌と戦うといった恒常性維持機能だって構造は同じです。

「手に入れる」は分離感を発端としている

欲しいと思って手に入れるという一連のプロセスを客観的に見ると、どういう方法が理に適っているだとか、そういうことが議論の対象になりますが、少し前に書いたように「手に入れる」というイメージ自体が分離感を発端としています。

しかしながら、何かを手に入れて満足を得ているようでも、結局外界を媒介して自分の内側で起こっていることにしか過ぎません。

そして、それはバラバラだったものが統合されたわけでもなく、また、離れていたものを手に入れたというよりも、既にあるものに対し意図して受け取った、結局それだけのことなのです。

心はただ受け取り、現象は自動で展開

心はただ受け取り、現象は自動で展開しています。

そうした中、自分が認識している世界、自分が見ている世界だけが世界であり、自分と世界はイコールです。

例えば本屋に行くと面白いのですが、無数の本や雑誌がある中、人の興味関心はバラバラです。

一応可能性としてはどの本を手にとってもいいはずです。

その中で、何か一つの本を手にとって立ち読みする、その時点で限定が生まれ、その本の情報空間の中に飛び込むことになります。

インターネットでも同じです。

ということで、なぜかいまあなたはこのブログを読んでいます。

何某かの意図があって、現象が展開した、ただそれだけなのです。

諸君は自分が何を望んでいるか実際に知っているか? 曙光 539

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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