現実を尊敬する

われわれは自己を失わないために、自分の理性を失わないために、体験を避けなければならない!そこでプラトンは現実から逃げ、事物を単に色あせた抽象物においてのみ観ようと思った。彼は感覚のゆたかな人であり、感覚の波がどんなにたやすく自分の理性を打ち砕くかを知っていた。― したがってこの賢者は、次のようなひとりごとを言わなければならなかったのであろう。「私は現実を尊敬したい、しかし同時にそれに背を向けたい。私はそれを知っており、恐れているから」と? 曙光 448 中盤

「ありのまま」や「そのもの」を定義しようとすると、「うーん…この『りんご』を半分に切っても『りんご』か…」となって、プラトンのイデア論の方にいってしまいそうになります。

「本質とは何だろう?」

これは本質を捉えることができれば、具体的な個々の問題の解決策を知っておかなくても、柔軟に問題を解決することができるのではないか、というような恐怖心的なものが潜んでいたりします。

確かに、具体的すぎるものの捉え方よりより抽象的な本質部分を知っておくことで、多様な問題に対してすぐに解決策を見出しやすくなります。

なので、「本質とは何だろう?」ということを思いを馳せてしまうということはわかるのですが、そういうことに思いを馳せる時に、気をつけねばならない点があります。

それは、アイツは常に何でもかんでも「汎用性の高い法則」を見つけ出そうとすることです。

汎用性の高い法則

「汎用性の高い法則」を見つけ出そうとするその動機は「使いまわせる簡単な定義があれば、危険に対して幅広く対応できる」というものです。根底が恐怖心ですから当然です。なるべく楽をして恐怖心を克服できないか、というような意図が潜んでいます。

そこで「男はみんなくだらない人間ばかりだ」という、僻み根性を持った女性のように、また、「女はみんな悪魔だ」と、恨みをもった男性のようになってしまいそうになります。しかし、こうしたものは、ひとつの例外ですぐに覆ります。

ひとつでも例外のあるものは、傾向であり、明確で揺るぎない法則とは言えません。

まあこの例で言えば「だからこちらが素晴らしい」とか、ただの僻みだったりとかそういった感情、自尊心で話しているだけですから、感情が満たされた段階ですぐに覆るでしょう。

さて、つまりは、恐怖心発端で「簡単に判別できるポイントを探そう」ということは、あまりしない方がいいということです。

いや、ポイントを見つけ出そうとすること自体は結構ですが、それを固定化してしまうことに危険性があります。

感覚の波が理性を打ち砕く

ニーチェはプラトンを名指しして「彼は感覚のゆたかな人であり、感覚の波がどんなにたやすく自分の理性を打ち砕くかを知っていた」と言っています。

いつでも勘違いしそうなのが、全てのことに対して「理性と気力で何とかなる」と、思っていることです。感覚からの影響をなめてはいけません。

ただでさえ感情に振り回されているのに、感覚からの衝動に打ち勝てるほどの集中力など、ほとんど無いはずです。

プラトンほどの理性のある人でも

プラトンほどの理性のある人でも、感覚の脅威には勝てません。その後の対処法や考え方の真偽、正誤は別として、それほどまでに理性などあてにならないものです。

頭で考えて、自分の頭が作り出した理性など、想像力やイメージとしての誘発、感覚による衝動の前ではイチコロです。

感覚からの衝動をなめずに、また、理性などあてにせずに、「余裕をぶっこかないこと」です。

ふとしたことで、理性などすぐに壊れるのだから、誘発が起こらないように配慮すべきでしょう。

標語だけでは事足りない

ギムキョの大好物である

「禁止されている」

「決まっている」

「定められています」

の標語だけでは事足りないということです。

近年では、予防法学が少し浸透してきました。

事後的な法的解決ではなく、単なる禁止事項の策定だけでもなく、実質的に不祥事を防ぐための仕組みを作っていこうという流れです。

「セクハラはいけない」

という啓発活動だけでなく、実際に終業時間をずらすなど、現実的な手法がとられているようです。

現実を尊敬する 曙光 448

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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