感情とその判断からの由来

「君の感情を信頼せよ!」― しかし感情は最後のものでも最初のものでもない。感情の背後には判断と評価があり、それらは感情(傾向、嫌悪)の形をとってわれわれに遺伝している。 曙光35

感情は今の状態の一つの指針で、「その場」に限って言えばそれが全てみたいなものですが、それはすぐに流れていきます。

たまたま訪れた感情にも、その原因があります。その原因を目にも止まらぬ速度で判断して評価しています。

そしてその感情の原因は信念であり、固定観念です。それに現象としての条件が整った時にある種の感情が湧いてきます。

「席を譲れ」というような表情

たとえば公共交通機関で、席を譲ってもらって「ありがたく嬉しい」という感情が起こったとしても、その手前には「そうそう譲られるものではない」とか「譲らなくてもいいのに譲ってくれた」とか、いろいろな前提があります。

たまに「席を譲れ」というような表情をしてくる人がいますが、そういう人の場合は席を譲られても「当たり前だ」や「もっと早く気づけ」というような感情がわき起こっているかもしれません。

全体主義的比較の正当性

それは社会的に考えて、相対的に見て、優先されるのは自分の方だという全体主義的比較の正当性が信念としてあります。

そしてその正当性の根拠は「比較したら当然だ」という社会としての思考からの帰結、そして、それを「みんなが認めているからこそ、そういうシールが貼ってあるじゃないか」というようなことです。

他人への説得材料

しかしながら「正当性」というのは「他人への説得材料」というような性質があります。その他人、その主張する相手がその正当性を認めているかどうかに委ねられています。

ここで問題になるのは、実際に席を譲るとか譲らないという、「譲る側」ではありません。譲られる側です。

人対人、つまり万人の闘争ということなら譲る必要はありません。必要はないだけで譲っても構いません。ここではそんな世間で言う「良心」については触れません。

ということで、譲られる側の苦しみです。

席を譲られる側の苦しみ

考えられる苦しみはいくつかあります。考え抜けばもっとたくさんありそうですが、いっぱい見つけることが目的ではありません。大筋で考えてみましょう。

ここではひとまず席を譲られる側の苦しみについて考えていきます。

譲られて当たり前

もちろん譲られて当たり前だという信念を保持していると、それが実現しなかった時に怒り、憤りを感じます。

自分は正しいのに、社会はそうしているのに、社会ではそれが当然なはずなのに、目の前にその「当然の行動」を起こさない人がいる、というその現象を排除したいという気持ちです。

また一方で、満員で座るところもないのなら、「なるべく座りたいが仕方ないだろう」というレベルの欲が、「譲られることが可能な状態」ならそれ以上に欲の衝動が大きくなります。そして、それへの渇望感が生まれ、苦しんでしまいます。

競合

ついでに言うと、同様に「譲られて当たり前」な同レベルの人が同じ環境にいた場合、椅子取りゲームになります。その時に、現に座っている人は、誰に譲ればいいか迷いはしないか、というようなことも起こりうるでしょう。

そんな状況はあまりないと思いがちですが、シニア世代は最近集団で行動したりします。ということは、そういう状況がないとも言えません。

そして譲り合いの譲り合い、結局決められないということは起こり得ります。

また、同時に「譲ろうとしたら、『そんな歳じゃない!』と怒られた」というケースもあるでしょう。

せっかく「席を譲る」という行動を起こそうとしたのに、その行動が、「あなたは老人で、弱者ですから」というふうに捉えられてしまうといったケースです。

社会的脅迫からの行動の結果の享受

席を譲るという行動は一応の「善意の結果」のようにも見えますが、行動としては座っていた人が立って、立っていた人が座るだけです。物理的な現象はそれだけです。それ以上はありません。

ただ、行動にはその前に意志というか意図が必ずあります。意識的/無意識的という差はあるかもしれませんが、必ず心が動いてから体は動きます。

その時に、譲る側が元気そうで、ただの善意で席を譲られたのなら「ありがとう」と言いやすいですが、譲る側が疲労を隠せないほどに疲れていたり、警告シールのようなものが目の前にあったり、譲る側が誰か偉い人と同乗していて、「社会的脅迫」の結果から「席を譲る」という行動を起こした場合、譲られた側は「なんだか申し訳ない」という気持ちになるかもしれません。

このなんだか申し訳ないという気持ちが「いいよ、お疲れでしょう、そのまま座ってて」「いやいやどうぞ」などという気の遣い合いを生じさせます。

特に譲る側がヘトヘトのサラリーマンなどの場合は、譲られる側として、いわば余生を送っている「ある意味での道楽者の自分」が譲られるのは申し訳ないというような気持ちを持っている方がいます。

そういう人はあのシールのせいで、「もしかして気を遣わせているんじゃないだろうか」というようなことも考えているかもしれません。

その時にそんな人が気にされるのが周りの目です。一応形式だけでも譲るフリをしろよ、という社会的脅迫です。その無言の「目」の圧力が、譲る側に向けられていると譲られる側が察知したとき、下手をすれば苦しみを感じてしまいます。

脅迫されているのは自分ではないのに、自分が原因で目の前の人は脅迫されている、そんなことを感じても不思議ではありません。

「これは絶対的に社会に役立つマナーだろう」という安易な発想で、下手に標語を作る人は、そんなことも考えてから作ってみてください。

感情とその判断からの由来 曙光 35

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ