「工程を順序立てて、誰にでも伝達可能な教本をつくる」という感じが主流になり、人文科学の分野でもやたらと数学的に示すということが主流になってきました。実務や実学などでは、その方がやりやすいということはわかりますが、一定領域以上となるとメタ的に示さないと変な方向に行く、ということがよくあります。また感情の世界においても同様です。
数学的な示し方や推論が万能かどうかという点ですが、そうしたものはたいてい大雑把にモデル化されていて、細かな要素を排除していたり関連する要因が微妙に無視されていたりするので、現実としてはズレが生じるということもよくあります。
数学的な示し方や推論の不完全さの例
まあ数学的な示し方や推論の不完全さの例として、よく例えられるのは、ビルを建てるのに100人で1年だったとして、1200人が携われば、1ヶ月で建つのかという点です。
何かを乾かしたりする時間や、作業しようにも人が入れる面積、ある工程が終わっていないと手を付けられない工程などもあるので、そうした単純計算はできません。さらに30倍の人数が加われば1日で完成させることができるのかと言われれば、現実には不可能なので、こんな単純な思考実験ですら論理の限界というものはすぐに見えてきます。
また「誰にでも伝達可能な教本をつくる」ということに関して言えば、「それにとらわれて変な格好になることもある」という場合もあります。
投薬とカウンセリング
ある精神科医の書籍に書いてありましたが、うつ等の病に対して「薬で治療する」ということが主流になっているのは、収益的な問題だけでなく「これをしたからこの結果が出た」ということを確認したいという発想から来ているということのようでした。
その方のお話によると、いわば「5年間かけてカウンセリングを行った結果、症状が無くなった」という場合、精神疾患の治癒の因果関係において、本当にカウンセリングが効いたのか、自然治癒なのかがわからない部分があり、そうすると汎用性のある法則の発見やデータの裏付けには繋がりにくく、また、医師の威厳や治療行為自体の意味がはっきり保てないということから、「これをしたからこうなった」ということがわかりやすい「投薬による治療」が推奨されている、みたいなことが書いてありました。
単純には、「苦しんでいる『目の前の人』を治そう」というのは二の次で、「わかりやすい結果」が優先されているというような実情が少なからずあるという感じでした。
まあそうした方針の選択においても、医師と患者という二者間だけではなく、様々な要因が複雑に入り混じっていると思うので一筋縄に語ることはできませんが、「そういう要素がある中、現実にはこうなっている」ということを捉えておくと良いかもしれません。
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