変化する怪物と四半世紀の混乱

先日夢の中で、なぜかリヴァイアサンが出てきました。リヴァイアサンといえばトマス・ホッブズの「リヴァイアサン  あるいは教会的及び市民的なコモンウェルスの素材、形体、及び権力」でもありますが、僕たち世代としてはファイナルファンタジーシリーズに登場する幻獣のイメージが強い感じです。

一度必然的に出てきた流れは止めることができず、その変化は安定するまで必ず混乱を招きます。

そしてその混乱期間としておよそ四半世紀くらいが目安になるというようなことが、何故か夢の中でリヴァイアサンの形をして出てきたわけです。

さらに起きてから干支二回りの24年はたくさんの数を受け入れるのに、四半世紀の25年は、5以外を拒絶するんだなぁというようなことを思ったりしました。隣同士の数なのに不思議だなぁという感じがミカエルとルシファーのようでもありました。

まあこれらはほぼ寝ぼけながらの譫言のようなものなので、特に意味はありませんが、そんな印象たちが無意識の暴走としてやってきたわけです。

トマス・ホッブズの「リヴァイアサン」は、いわゆる社会契約というやつで国家(コモンウェルス)に権利を譲渡するというようやつですが、そんな国家をリヴァイアサンとしましたが、もちろんそれを構成するのは権利を譲渡した国民であるというような感じで、僕が夢で遭遇したリヴァイアサンに「当たらずとも遠からず」という感じです。

「止めることのできない流れ」のイメージとしての要素が強く、それは時代の流れとしていつか必然的に出てくるものであり、それに抗おうとも誰も止めることができないというものです。

それである種シラフに戻ってふと考えてみると、印刷とか出版といったものも世界を大きく変えたりしましたし、その後のラジオやテレビやインターネットも社会を大きく変えました。

そうした新技術は、出てくる時期を予測することはできないかもしれませんが、いずれ出てくるようなものであり、いずれ普及して世の中を変えていきます。

開発した本人たちですら予想もしなかったような流れを作ります。

社会の流れの中でいつか自然発生的に、しかも必然として出てくるそれらは、それを形にした人たちですら予測できない新たな激流を作り出していきます。

それは予め可能性としては含まれているものであり、生まれたときから可能性として含みながら、さらに生まれる前から予定されていたようなものでもあります。

もちろん自然科学的な技術の分野だけでなく、人文科学、社会科学の分野でもこうした流れは同じように起こります。

安定するまでの混乱

そんな事を考えていると、近年の「革新的な新しいもの」を振り返ることになりました。

そして混乱が起こるのはある程度普及した時なのだなぁということを考えたりしました。

イノベーター理論におけるイノベーターとアーリーアダプターあたりまでは大丈夫ですが、いわゆるレイトマジョリティの領域にまで到達した時、その瞬間くらいが一番の混乱を招くという感じです。

そこに到達して、それが一種の普遍化を起こすまでの間、社会は凄まじく混乱するというような感じです。

ラジオでも、昔はラジオ塔というものが公園なんかにあったりして、そこにみんなが聞きに行くという形でしたが、それから家庭用ラジオが各家庭に普及し、その後ポケットサイズのトランジスタラジオが登場して真空管ラジオの文化を上書きしたりしました。

こうして「わざわざ聞きに行くもの」から「一家に一台」というものになり、最終的に「ポケットに一台」というふうに変化していったのは必然ですし、そしてその「あり方の変化」から、放送内容も大きく変化していったという感じになるでしょう。テレビについてもほぼ同様です。

本当の最初の最初は軍事利用とかそんな感じでごく一部の人たちが自分たちの都合に合わせる形で使っていたものが一般化し、一般に普及するにつれて、社会は怪物のように「想定もしていなかった動き」を生み出します。

近いところで言えば、インターネットとスマートフォンの普及がわかりやすいところになりますが、これらを使ったようなWebの空間においても、詐欺等々昔から使っている人とであれば陥らないようなことにハマってしまうというケースありますし、逆に昔から使っている人が気づかなかった利用の仕方が発見されたりもしてきます。

先日、動物虐待の様子の動画がバズり、虐待されていた動物が動物保護団体に保護されるというような流れもありました。

その技術を開発した人たちは、最初そうした事が起こることを完全に予測して開発したわけではないと思いますし、「この構造は社会の中でどう出るか」というところは無数の可能性を持っているのですべてを網羅して考えることはできません。

逆にこうした技術のおかげでひどい目にあった人たちもたくさんいるはずです。

脳の進化に体の進化が追いついていないのと同じように、新しい流れという怪物はどこまでも先に進化していきます。

法整備が追いついていないというのはよく言われることですが、明確な「法律」という分野だけでなく、日常の取り扱い方すらも全く追いついていないということがよく起こります。

そのような形で、安定までの間多種多様な混乱が起こるという感じなのだろうと思います。

一部の人達が使っている間は特に混乱もなく、完全に一般化した時も特に混乱は起こらないものの、ある程度多くの人達に一般化したくらいが一番混乱するという感じです。

そしてその期間は四半世紀くらいなのかなぁという印象があります。

人の考えることは変わっていない

ただそれらをよくよく考えてみると、「包丁で人が刺されたからといって包丁が悪いということにはならない」のと同じように、それはただそれとして、必然的に世の中に登場したようなものであり多種多様な使い方は、それができた時には否が応でも出てきてしまうものになります。

「より巧妙になる振り込め詐欺の手口」と同じように、裏をかいたようなやり方を防ぐような防止策を講じたりしても、それもまたすり抜けるような何かが登場するという感じになっています。

そんな中、新しい革新的なものが世に登場した時は、方法論的にそれまで「ブロックされていた何か邪なもの」が新技術によって形になってしまうという感じで予測不能な事件が起こったりするというだけなのだろうということを思います。

その逆もまた然りであり、今までは表現しようにもできなかったものが新技術によって形になるということも起こります。

ただ、基本的に万人の心は安定していません。だからこそ、事件の方がより多く出てきてしまうという感じになるのでしょう。

大昔から特に人の考えることは変わっておらず、「何かチャンスがあれば…」と隙を覗っていたりという感じで準備体制に入っています。

そしていつもは抑制されていても、ふと感情が暴走したときなんかに新ツールを使ってそれを表現してしまうという感じです。

「変化する怪物」との付き合い方

変化する怪物は常に姿かたちを変え激流を構成しています。

でもよく見てみると、表面に出てくるものは目新しいもののように見えて、奥にある構造は特に変わっていません。

時代を見越して何か時流に乗りたければ、表面的なものを概観してみてもいいと思いますが「どう出ているか」が違っているだけで本質は同じなので、特に目くじらを立てて追いかけるようなものではありません。

その流れに乗り、その成功法則に執着しようが「またすぐに変化し、忘れ去られて落ちぶれる」という感じにもなりますし、どうせ抗おうにも抗えない流れの中、その流れが全く見えないとなるとうまくいくこともうまく行かなくなったりします。

「四半世紀」というのは夢の中に出てきたひとつの目安程度ですが、「今、一番混乱してるときくらいかなぁ」とか「落ち着いてきたのかなぁ」というような雰囲気を掴むには良いくらいの期間だと思います。

「その怪物たち」は、どういう変化をしていて、今どのあたりの安定なのか、というところが見えたのなら、経済社会でもうまく渡り歩いていけるはずですし、日常でも憂いが減っていくでしょう。

「煽動される側にもならなければ、煽動する側にならなくてもいい」

という感覚になってくるはずです。

「反応する側でもないが、反応させる側としてあれこれ躍起にならなくてもいい」

というような感じです。

確率に潜む日和見

Category:miscellaneous notes 雑記

「変化する怪物と四半世紀の混乱」への2件のフィードバック

  1. おはようございます。
    今回も勉強をさせて頂き、ありがとうございました。
    ブログの内容から離れてしまうコメントをお許し下さい。

    新しいものの中に実は古くからの技術があると感じることが多々あります。
    個人的にはスマートフォンが登場したとき、これはPDAと携帯電話とiPodの融合だよなぁと感じました。
    これが世界を席巻するとは思いませんでしたw

    私は製造現場に関連した仕事をしています。
    ヒューマンエラー防止のために色々な手法が施されていますが、結局最後の砦は「人」だったりしています。
    人の意識、なんと言いますが、「良いものを世の中に出すぞ!」とう使命感がなければ、いつまでたってもクレームは減りません。
    実際に生産現場でのチェックにバーコード管理を入れていますが、管理することが主目的になってしまっている傾向が見られています。

    変化の流れに乗ることは必要ですが、その中にある本質はきちんと理解した上で利便簡便性の恩恵にあずかりたいと思います。

    1. コメントどうもありがとうございます。
      特に内容から離れたものではないと思います。
      スマートフォンの登場の前に、スマートフォンを構成する各要素は既に示されていたという感じになりますし、近年のアプリケーションも要素を分解すれば、各要素はそれほど目新しいものではありません。
      使用するユーザー層の範囲が広がったことで、使用のされ方を始めとした流れが大きな流れになっただけだと思います。

      また、生産現場に関する管理においても、一種の流れの途中のプロセスだと思います。
      目的のための手段が目的になっている時は、混乱期であり、そうした混乱の中何かが欠けていることに気づき、原点としての本質にもう一度気付くという流れの途中というものかもしれません。
      その間、現場を構成する大半の人が手段が目的になっている中、ずっと本質の方を見ている人もいます。そうした状況にある時は、その場を構成する人たちが別の方向を向いているので、まさに混乱しているという形になるのでしょう。

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