劣等感の克服と劣等コンプレックスの解消について触れていきます。
劣等感を克服したいとか、劣等コンプレックスを解消したいという思いを持っている人も多いでしょう。
まあいつものことながら、劣等感・劣等コンプレックスそして「劣等」という評価について「それらは虚像」ということをお伝えするのではないか、という予測が立っているのではないでしょうか?もちろん見事にそれに沿う形でお伝えしていきますが、今回はわかりやすくするために普段よりもかなりレベルを落として書いていきます。
一応最初の方に「劣等感」や「劣等コンプレックス」の定義について少し触れておきますが、それらの意味をわかりやすく伝えることが目的ではありません。
もちろん目的は「苦しさから脱するきっかけ」を提示してみることです。
ということなので、今回は「カタそうでゆるい」感じで劣等感や劣等コンプレックスについて触れていきます。
最初の方は、世間一般の心理学的な「劣等感と劣等コンプレックス」のお話をしつつ、後ほどその克服や解消について智慧により語っていくことにしましょう。
アドラー心理学(個人心理学)としての
劣等感と劣等コンプレックス
劣等感や劣等コンプレックスについて、それらの用語はフロイトやユング、そしてアドラーといった有名な心理学者がよく使っていました。
劣等感の克服について触れる前に、劣等感の意味が曖昧なままに進めるよりもひとまず、アドラー心理学(個人心理学)上のだいたいの定義を使った上で話を進めていきましょう。
あまりアドラー云々というとアドラー心理学という概念に縛られてしまい、時に「私が勉強したアドラー心理学と違う」などと思ってしまう人も出てくると思いますので、それは避けたいところですが、まあわかりやすさ最重視ということで、一応最初の方はアドラーの概念を中心とすることにします。
ここでなぜアドラーを中心として話を進めていくのかについて少し触れておきます。
それはフロイトを代表として、それまでの学者は因果関係において過去からの因果律、決定論的な方向性で心を捉えていました。
劣等感や劣等コンプレックスという概念すらも、それが病の原因として「ある」から、原因を叩き潰そうというアプローチをしていました。
しかし、アドラーはそれらを目的に対するツールとして「言い訳に使用しているにしか過ぎない」というようなアプローチで捉えました。
というところがコペルニクス的転回です。そうした構造については後ほど少し触れることにします。
ただアドラー本人については実際のところどうか知りませんが、その解説、アドラー解釈自体は盲信するような話でも何でも無く、「因果律の否定」といった概念の洞察の甘さなど、論理にはたくさんの穴があり、同時に共同体感覚や関係性において「人間しか含まれていない」というような点を筆頭に抽象レベルが低い状態にあります。ということで、「まだまだ青い」という風に思っておきましょう。
色々な学者がそれぞれに定義を持っていると思いますが、今回は、今回の目的に沿うように定義していきましょう。以下、アドラー心理学(個人心理学)としての劣等感と劣等コンプレックスの概念を中心としますが、さらに洞察しながら定義していきます。もちろん「アドラー心理学まとめ」みたいな感じではありませんし、目的はアドラー心理学のお勉強でも何でも無いので、僕の定義として話を進めていきます。
では、まず劣等感について見てきましょう。
劣等感とは
劣等感とは、単純に「自分は劣っていると感じる」というやつです。劣っているという思考を持って感じる感情やそうした感情に伴う体の感覚といったところです。
辞書的な劣等感(inferiority feeling)の定義としては、知力や性格といった内面的な部分、体力や容姿といった外面的な部分、そして場合によっては家柄や経済状況、社会的地位などの点で他者よりも自分は劣っていると考える時に感じる感情であり、あくまで主観的に劣っていると思い込むことによって生じる感情ということになります。
そういうわけで、「劣等感の克服」を目指す人などは、劣っているという「思考上の判断」をなんとかしようと思い、優劣の基準上の自分の客観的評価を高めようと「頑張って」しまいます。
それは根本から間違いですよ。
といってもまだ説得力もないと思いますので、後ほど触れていきます。
劣等コンプレックスとは
次に劣等コンプレックス(inferiority complex)ですが、劣等コンプレックスとは何かを語る前に、まずコンプレックスとは何かを示しておく必要があります。これは、単純に複合体という意味であり、心理学上では心的複合体という意味を持ちます。
なお、稀に「劣等感コンプレックス」と表記されることもありますが、劣等感は、「inferiority feeling」であり、劣等コンプレックスの原語は「inferiority complex」なので、劣等感コンプレックスなら「inferiority feeling complex」でないと変だろうと思っているので劣等コンプレックスと呼んでいきます。
コンプレックス(complex)とは、元は精神分析的概念で、無意識下で自我を脅かすような心的内容が情動を中心として絡み合っているという感じで「心的複合体」です。
そういうわけで、単純に劣等コンプレックスとは何かと考えた場合には、劣等感をもたらす意識の中の概念の寄り集まり、つまり劣等感をもたらす意識の複合体というような意味になります。
劣等感がコンプレックスを形成すると劣等コンプレックスになります
ただ、アドラー的に考えると「言い訳」という感じになります。
何かを「したくない」とか「したい」という場合に、「こういう状況」だから「それができない」とか「それができる」というふうな構造という風に考えてみましょう。
あくまで前提として「目的」があり、それに対する言い訳づくりという感じです。
実際に頭痛や腹痛が言い訳としての「状況」として現れることもあります。そして「目的」を達成するためにその状況を理由にするという感じです。
いわば目的を達成するためにそれに沿う思考が働いたり、現実に現象を起こすということです。
なお、アドラー的な発想で言うと、劣等コンプレックスの対義的な概念として「優越コンプレックス」というものもあり、彼は相互補償的関係として捉えました。
目的に沿うような辻褄合わせ
アドラーによる劣等感・劣等コンプレックスという概念に対するコペルニクス的転回について触れておきましょう。
劣等感は「自分は劣っているという感じ」、劣等コンプレックスは「劣等感をもたらす心的原因の集合」という風に捉えられて来た上で、彼は「原因を潰す」という方向性から、「そうした思考は目的に沿うような辻褄合わせにしか過ぎないのだから、原因はどうでもいいので、先に目的をしっかりとすれば良い」という風に考えました。
普通、頭痛が起こったら、頭痛の原因を探してそれに対処します。しかし、頭痛という現象自体が「ある目的を達成するために起こった現象」という風に考えるわけです。
ということで、原因論ではなく目的論として考えたという感じで、それまでの心理学者とは一線を画するという感じになります。
劣等感を克服するための通常のアプローチ
劣等感を克服するために、ということで通常行うアプローチは、「劣等感の元となっている自分の実力の無さを克服するために能力を上げて人からの評価を高める」という感じであったり、「そんなに気にすることじゃないよ」と誰かに言ってもらいたがったりという感じです。
「劣等感は虚像である」とか、「劣等感なんて持たなくていいよ」などと、過去の偉人たちが言っているというようなことを見聞きしたところで「でもなぁ…」という風になってしまいます。
所詮こうした構造は、「外界を頼りにしている」という領域を出ていないのです。
偉い人が「そんな君でも大丈夫だ」とか「劣等感など気分だけの問題だ」とかそうしたことを「言ってくれる」ことが束の間の安心をもたらすという感じになっています。
ということは、あくまで外部の情報、外の状態、他人を拠り所としている状態だということです。
そういうわけで、「君は劣っているわけじゃないよ」などと言われても刹那的な鎮痛剤にしかならないのです。
また一方脳筋体育会系に相談などしようものなら、「甘い。きちんと評価されるように努力して頑張れ」などという答えが返ってきます。
これら全てが誤りです。
なぜなら、他を拠り所としているからです。
しかし、一方で自分を拠り所として自分の判断で「自分は劣っていない」と判断しようと思っても、それはなかなかできません。
その理由は簡単です。
判断基準が外部の情報を基準としているからです。
「自分は劣っていないのだから劣等感など持たなくてよい」
といったように、自己説得をしようとしても、優劣の判断自体が何かの基準を拠り所としています。
そしてその基準は社会的であり、他人からもたらされた基準であるため、ジャッジは自分で行っていたとしても、基準自体が他人に依存しているのです。
だから、それは他人を気にしていないようでしている状態になります。他人の世界の中、柵の中で無理やり自分を評価したにしかすぎないということになります。
因果律の否定という表現は誤解を招く
アドラー心理学は原因論から目的論などと言われていますが、因果律の否定や決定論の否定という概念を単純に考えると変な方向に行ってしまいます。
と、ここで少し哲学的領域に突入します。
劣等感を感じるということひとつとっても、それは今「形成されたもの」です。そして原因がなければ現象は起こりません。
原因が全く関係ないのであれば、原因があっても今現在の結果はいかなる場合であっても生じないはずです。
そして原因が原因であるからこそ、劣等感という感情であれ何であれ結果が生じています。
因果律や決定論が全くの誤謬であるのならば、どうして人によっては劣等感が生じるのでしょうか?
それは完全に矛盾になります。
そういうわけで、因果律や決定論自体を否定しようがしまいが、そこに量子論的な曖昧さが含まれてこようが、それらは自然な「理」の領域なので、心理学的な解釈や主義で変更できるものではありません。
しかし、原因がいくらあっても条件が揃わなければ結果は生じません。
では、その条件とは一体何でしょうか?
その条件は「今生きていること」を筆頭に多岐にわたりますが、原因を「今」に持ってきている、ということが一つの条件です。
今現在の目的、今現在どうありたいか、今現在、過去を関連させているのか否か、といったところです。
野放しにしていると、「分け隔てる機能」であり「外界への反応のパターン」であるアイツこと自我の自動演算の範疇に留まることになります。
劣等感と優劣の基準
「劣等感の克服」を目指す人がやりがちな、「自分は劣っている」という「思考上の判断」をなんとかしようと思って、社会的な優劣の基準の上での「自分の客観的評価」を高めようと頑張ってしまうことが根本から間違いだということについて触れていきましょう。
まあこの部分はまだわかりやすいと思いますが、人からの評価で自分を評価しようとすること自体が間違いだということです。
劣等感の前提となる優劣の基準は他人からの要請によってもたらされたものです。
その人が「自分にとって都合が良い」ということで要請してきた基準ばかりなのです。
そしてその要請に従って基準が出来上がり、それに沿う状態になっていないから「劣っている」という判断を下しているに過ぎません。
「他人によって自分を確認する」ということをやめましょう。
それは「ほめられたい」ということや「けなされたくない」というようなこと、それら全てが他人によって自分を確認するということになります。
といっても、そんなことは色々なところでさんざん言われているようなことなので、「何をいまさら」という感じになってしまうでしょう。
ということで、
「気にしたくなくても気にしてしまう」
という感じになっています。
ということで、未だに誰かに評価されるため、友達をたくさん作るため、モテるため、という感じで世間に求められている何かに合わせるように毎日を過ごしているという感じなのかもしれません。
克服よりも目的は何か?
そういうわけで、いつまでも「劣等感を克服したい」という感じが付きまとっているという感じでしょう。
「劣等感を克服するために頑張る」という感じで執着すると「劣等感を克服したい人用のサービス」のいいカモになったりするだけかもしれません。
では、それを根本からなくすにはどうすればよいか?
それは簡単です。
目的をしっかりと見ましょう。
誰かから求められている、求められていると妄想している「ある基準」に満たないからそこまでの領域に行こうとするよりも、目的をしっかりと見つめるほうが理にかなっています。
いや、目的は持っているって?
資格を取って、社会的な評価があるところで働いて、あたたかい家庭を築くという目的?
ちょっと立ち止まって考えてみましょう。
それら目的は他人からの要請や演出によってマインドコントロールされた上での目的ではありませんか?
他人を一切排除した上で目的を考えてみましょう。
「フェラーリに乗って豪遊する」
もしフェラーリに乗ることが、友人、知人、そして道行く通行人全員から僻みでも何でも無く「心の底から蔑まれ爆笑されること」だったとしてもそれを選びますか?
克服の先にあるものを再確認
さて、仮に劣等感を克服したいという心の底から思い、目的を「劣等感の克服」と設定した上で何かをやろうと決めたとしましょう。
やる気は出ますか?
やる気は続きましたか?
その間楽しかったですか?
その間幸せだったでしょうか?
まあ自己啓発を筆頭に、「これで変わることができるかもしれない」と思うような何かに出会った時に、一時的な興奮というものはやってくるかもしれません。
しかしそれは渇望感を伴うものです。不足を感じているということになります。
では、劣等感を克服した先にありたい状態とは一体どんなものでしょうか?
今すぐにその状態になればいいのです。
目的に沿うように勝手に展開する
アドラーの概念としての劣等コンプレックスは、「目的に沿うように言い訳を作る」ということでした。
「でも、〇〇だから、〇〇はできない」という言葉を日常的に使うようにして、何かを「やらない」という目的に沿うように現実が展開するという感じでした。
じゃあ簡単です。
目的を変更すればよいのです。
目的の変更という感じがいまいちピンとこない場合は、意味付けの変更、意義の変更という感じならどうでしょうか?
例えば、他人からの強制の要素を含んでいる漢字の勉強や英語の勉強ならばやる気は出ませんし、やらないための言い訳を作ってしまいます。
しかし、例えば気になっている異性に「英語で書かれたラブレター」を渡されたらその英文の意味を翻訳したくてたまらなくなるはずです。
「英語を紐解く」という点で言えば同じですが、目的が全然違いますし、英文を訳すことの意義が全く異なります。
「やる気を出そう」となど思わなくても、勝手に猛烈なやる気が生まれているはずです。「やらないため」の言い訳などどこからも出てきません。そしていつもの勉強としての「英語の学習」の時は「やらない」「やりたくない」という目的に沿うように起こっていた頭痛などもどこかに吹き飛んでしまいます。
そんな感じで目的や対象の意味付けを変更すれば無理をしなくても勝手に事は展開していきます。
理屈で言えば、目的としての「やりたくない」に合わせるように現実が展開するということであれば、目的としての「私はそうある」というものに合わせるようにも現実は展開するだろうということです。
目的が変われば、対象の意味が変化します。現象はほとんど同じでも、それに対する自分の意味付けが変化します。そしてそれに応じた反応としての感情も変化していきます。
そしてさらに、自分にとって重要なものが変化します。目的に合わせるように意識の中に入り込んでくる情報も変化していきます。そしてそれらに同調するように、目の前の現象もどんどん目的に沿うようなものになってくるのです。
原因か目的かを科学する
因果律の否定とか、目的論だとかそういうので混乱する場合もあるかもしれないので、少し科学的なモデルで簡単に紐解いてみましょう。
ある行動を取る時の動機でも、現象を判断して反応した時の感情でも何でもいいのですが、基本的には「因果」という感じでモデル化しましょう。
そして、原因は単一の何かではなく、コンプレックスと呼ばれるように複合体です。ということで複合しているものをひとまず次のように分解しましょう。
動機 Z
原因 A B C D E
①A B C D Eが組み合わさって、動機Zが起こるとしましょう。
②それぞれの比重、重要度、要因としての強さを
A(5) B(4) C(3) D(2) E(1) だとしましょう。
この場合、そのままにしておくと、だいたいある一定周期でZが起こります。日常それぞれの要因の強さは直近に見たもの、新たに触れた情報で若干変動します。特に目新しい出来事がない限り、A B C D Eしか見えない状態で過ごすことになり、それぞれを若干強化するような形のままになります。
原因論からのアプローチで考えると、この内のAなどの臨場感を下げたりしてZが起こりにくくするというアプローチです。
Zを構成していたA(5) B(4) C(3) D(2) E(1)という要素の強さの低下やそれに伴う比重のバランスが変わること(A(1) B(4) C(3) D(2) E(1)など)によって、結果であるZが弱まっていくという考え方です。
一方目的論は、新しい目的を設定することで、新しい情報が入ってくるようになります。結果、新しい材料である「F」や「G」などを追加していくことに似ています。
するとA B C D Eに対して「F」や「G」が追加されていくことで、「A B C D E」それぞれの要因としての強さが相対的に弱まっていきます。
「F」や「G」に関する情報の深度などが深まっていって重要性が高まれば高まるほど、今まで起こっていた「Z」は姿形を変えていき、だんだんそれっぽいことも起こりにくくなります。
この例ではかなりシンプルに考えましたが、数え切れないほどの材料とパターンがあるはずです。
通常は、材料であるA B C D Eを野放しにした状態であるため、自動発生するに任せています。だから、単純に過去からの因果のまま、というような印象になります。
だから劣等感が自動発生し、それに沿うような現象も起こり、思考上では、自分でもよくわからない恐怖心を発端とした「危険の回避」を正当化するための辻褄合わせしだすということになります。
これに対して目的論は、先にある種自発的な意図を持って手綱を手にとるような感じです。
この頭に「目的に沿うように言い訳を作る」という癖があるのなら、それを逆に利用して目的に沿った現象が展開するはずです。
それは新しい世界を見渡すことになり、この意識の中の材料はどんどん新しいもので埋め尽くされていくようになるでしょう。
ただそれすらも、「目的論を知る」ということによる因果の原因の変化なので、結局通常の因果律の範疇です。
と、ここまでは一般論でしたが、最後に智慧により語ることにします。
劣等感を感じた。
劣等感を克服するために頑張った。
ではなぜ頑張ろうと思いましたか?
究極の目的
アドラー的に言うと、あれこれこなすことで劣等感を克服しようとするのではなく、「幸せになる」というような決意、決断を持って、そうした目的の方にセットすることが重要だ、というような感じです。
こうした感じが現代の自己啓発の源流と言われる所以という感じでしょう。
ただ、やはりそうした時に一種の「幸福論」が問題になります。
「目的」や「ゴール」というと、人によっては「ブラックジャックのような医者になることだ」とか、「大金持ちの投資家になることだ」というような感じになってしまいます。
ひとまずはそんな感じでもいいですが、それらはかなり具体的な目的になっています。
そうしたものでなくとも、「マイホームを持つこと」とか、「わが子がいる生活」など、一見他人があまり関係なさそうなことであっても、それらは他人を含めた世界の中での経験の中からはじき出した「ありたい姿」です。
残念ですが、それらは全て「今まで経験してきた中からの思考上の判断」であり、少なからず他人の影響を受けています。
劣等感は他人からの要請による「基準」が要因の一つです。
結局そうした「基準」の領域、影響の領域からは脱していません。
では、他人を意識した「目的」ではないような目的があるのかどうかというところですが、極めてシンプルに考えればそれは自ずと見えてきます。
まず、第1段階は月並みですが、「幸せであること」と言った感じでしょう。
具体的な目的よりもかなりマシです。
ただ、「何をもって幸せとするかというところは人それぞれだ」というような言葉が飛んできそうなところです。
ギャンブル狂いの人としてはギャンブルをすることが幸せなのだ、という感じで捉えられてしまします。
他の幾多の記事でそういうことではないという旨をお伝えしていますが、端的には次のような言葉で表すことができます。
第2段階であり、究極の目的です。
「一切の苦しみがないこと」
その意味については、「一切行苦」や「尊厳・自尊心と承認欲求」あたりをご参照ください。
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