われわれがだれかを愛し、尊敬し、讃嘆していて、さて、あとになってから、彼が苦しんでいることが分かると、― われわれは彼から湧き出てくるわれわれの幸福は、自分自身の幸福の豊かな泉から出てくるということ以外は考えていないから、いつも大いに驚くのであるが― 、われわれの愛や、尊敬や、讃嘆などの感情は、本質的な点で変化する。それは一層やさしくなる。 曙光 138 序盤
まあ曙光においてニーチェは、この後「彼が望むなら慰めの言葉を与える」ということで「よい復讐である」なんてなことを書いています。
昔「人は面白いなぁ」と思ったのですが、それは、例えば誰かに「庭の掃除」を頼まれたとして、庭掃除としての行動は同じでも、その依頼者が「誰か」によって、心理状況は千差万別になるということです。
相手を尊敬していれば「喜んで」ともなり得て、相手を見下していれば「自分でやれ」とすら思ってしまうという感じで、相手を見下していたとしても庭を掃除しつつ「お前とは能力が違う」とすら思うこともあるという感じです。
でもこれは相手に自分と同じような思考や意志があると思っているからなんだなぁということを思いました。
そんなことを教えてくれたのはインコやうさぎ、つまり動物たちです。
動物が教えてくれるやさしさ
手塚治虫氏の漫画のあとがきか、彼の言葉を集めた本か何かに書いてあったと思うのですが、動物と一緒に暮らすことは、「情操教育に良い」とされていて「情操教育は終わった」と山に動物を捨てに行くような人がいるそうです。
…
本当に動物をツールだと思っているのでしょう。
そうした考えはアブラハム系の宗教にありがちで、それ系の人は「人だけが偉くて、あとは人のためにあるもの」という思想を持ちがちです。
ただ、概して動物と暮らしたことのある人は、どこかしら慈しみの心が発達しています。そしてある種の諦めも感じているはずです。
人間なら言葉で伝えて命令のようなこともできますが、相手が動物ならば言葉が通じないため自力でやるしかない、いわば「世話をするしかない」ということを経験しているはずです。
「自分が動かざるをえない」
そうした状況は、何某かのやさしさを育てます。
そして例えば、自分の腹の上でおしっこをされたとしましょう。
犬でも猫でもウサギでもいいのですが、自分の腹の上に乗ってきて、じょーっとおしっこをした、と。
「頼むよー」
とは思いますが、特に怒りはやってきません。淡々と着替えを済まし、いいところその動物のお尻をちょっと叩くくらいです。
嫌いになったりもしません。
ところが見ず知らずの金髪YouTuberみたいなのがやってきて、「今日のネタですー!ご協力下さーい!」とかなんとか言いながら、寝ている自分の腹におしっこをしてきたらどうでしょうか?
よほどのマニア以外はブチ切れるでしょう。
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という感じで、糞尿の処理は人をおおらかにしていきます。
また動物の愛情表現の基本は「舐めてくる」です。
それを喜びととれるか不潔で不快だととるかで、心の広さを測ることができます。
潔癖度合いとおおらかさ
潔癖度合いとおおらかさは比例しています。
受け入れられるものが大きいほど、心も広くなります。
様々な対象に関する潔癖度合いは、対人関係において相手に条件を課す度合いにも関係しています。さらにいうと、性の開発にも関係しているのです。
そして婚姻関係とは、後の介護関係です。
いわゆる「望みながらも売れ残り」のような人は、概して潔癖の気があります。
そして潔癖の人ほど自分に対しても相手に対しても、何某かの制限、条件が多いはずです。
一層やさしくなること 曙光 138
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