僕は違和感を大切にしています。
すごく理論化された人文科学の分野でも、結局元は感情です。4年間ほど一応法律を勉強していましたが、結局は感情での行き場のなさが色んな条文というものを生み出していったと思っています。
そのような感じで、細かな違和感を含めた感情の行き場のなさを解消すべくとでもいいましょうか、違和感の原因を考えることを楽しみとしているフシがあります。
違和感を考えること
僕の違和感はかなり細かいところにまで及びます。
「そんなもんどうでもいいだろう」と、たまに言われますが、僕にとっては、そう言う人は面白くありません。僕にとってはそのどうでもいいことを深く考えるのが最大のエンターテイメントなのです。固執して嫌な気分を引きずることはありません。
「娯楽としてテレビなどの代わりに本でも読んでいるんだろう、結局媒体が違うだけじゃないか」と勘違いされることもありますが、本は材料の一部です。本質的には考えることが好きなだけです。受身ではありません。
感情と勘違い
感情というものはすごく素直です。世の中ではこれを抑制することを求められますが、それは社会としての安定性、組織として管理しやすいか、動きやすいかの話で、本来は抑制してはいけないものです。
ただひとつ厄介なのは、感情には勘違いというものがあります。
頭の中での理屈自体がまだ未完成の段階なのに、本人の中ではそれが現段階での絶対的基準になっていて、その状況で外部現象を「判断」してしまうと、感情的には「怒り」になってしまうことがあります。
自分の意見も、真反対の意見も、共に論証可能であり、また、自分の中では絶対化できても、客観的な絶対性は証明しえない、ということを頭の片隅に置いておくと便利かもしれません。
違和感というものは認識できる意識より、もっと深い層ではじき出された計算結果であり、より高い抽象度での思考だったりします。
抽象と具体についてはまた別の機会に触れることにして、かなりの違和感を覚えたお話を。
(猛烈に前置きが長いですね。。。)
尊敬する人
「尊敬する人」を聞くようなシーンがありますが、この尊敬する人というものがよくわからないのです。字義的には理解できますが、その尊敬自体がよくわからないのです。
ブッダみたいなことを言いますが、もし尊敬の対象があるとすれば、そんなものはこの世を構成するすべての存在というような感じになってしまいそうなものです。
これが問として世の中で使われる時、明らかに「限定」を求めてきています。
限定をしなければ、すべてが「イエス」になり「ノー」にもなります。
だから僕は「尊敬する人」がいません。
でも全ての人に敬意を持っています。尊重しているから、存在自体には攻撃もしないのです。
この二つは多少のニュアンスは違えど同じことです。
このニュアンスも感覚的なものであり、結局理論でどうこうできはしません。
ただ、好きか嫌いかは別なのです。
そしてそんな答えを言うと「面白くない、話が膨らまない」ということになって、メディアでは使ってもらえません。
世間では「尊敬する人」として選択対象になるものとしては、スポーツ選手の誰々さん、タレントの誰々さんとか、いいところ政治家、実業家、少し進んでどこかの社会活動家や何かの宗教の祖だったりします。
でも、僕は限定して特定するほど、そういう人に関心はありません。
僕は三日に空けずコンビニに行きます。
するとトラックが入ってきます。
おにぎりやパンを持ってきてくれます。
もちろんこの人も給料をもらっています。
でもこの人が確実に僕の生活を支えてくれているのです。
この人が元気で今日も働けるのは、趣味のプロレス観戦で健康になっているからかもしれません。
じゃあプロレスラーの方も僕の生活を支えてくれているのです。
深夜にコンビニの前でコーヒーを飲みながらそんなことを考えています。すごく神聖な気分になります。
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