十代の頃から左右の視力に結構な差があって、右は1.2、左は0.5など、そのあたりをうろうろしています。大昔に聞いた原因は「横になってのゲームのしすぎ」だそうです。特に気にならなかったので、ずーっと放置していました。
二十代の頃に同僚に誘われてメガネを買ってみました。昔からメガネは似合いません。「胡散臭そうになる」というのが大多数の印象だそうです。一応それを回避するためになるべくフチのないものを買ったのですが、つけた瞬間の視界のクリアさは想像以上でした。
一応メガネは持っていますが、今はかけなくなりました。今では夕暮れどきの眩しいときや、紫外線がきついだろうという時にサングラス、どうしてもグレアディスプレイで見なければならない時にブルーライトカットの度なしをかけるくらいです。
個性的なメガネ男子
最近よく見かける「メガネ男子」は、もう誰が誰かわかりません。母がユーロビートを聴いて「どれも同じ曲に聞こえる」というのと同じように、凝視しなければ、特徴が掴めません。
それほどに目の周りが持っている印象というものは強烈であり、それを縁太メガネで覆ってしまえば、やはりその人の持つ印象がある程度均一化されるのでしょう。
それでも誰か見分けがついてしまう人は、かなり強烈な個性的印象を持っていることになるということになりそうですね。
外観を平均化してくれる補正具
メガネが個性的なのではなく、メガネはある程度同じような印象に外観を平均化してくれる補正具です。ということはメガネで人と差をつけているわけではなく、メガネによって人と差が縮まるということであり、メガネによって印象は薄れてしまうということになります。
いざ裸眼
メガネで補正すべき左右の視力差があるにもかかわらす、メガネ生活をしてこなかったところにメガネによる「クリアな視界」なんかがやってくると、少し病みつきになりそうになりました。そんな時に、「世界は見えすぎないほうがいい」というアーティスティックな言葉を知った時から、少しメガネ生活に疑問を抱きました。
何かを運転する時にかけたりしましたが、やはり裸眼の時の視界とは少し感覚が違います。ブレーキングや走行ラインに微差が出てしまいます。そして、目の周りが濡れてくるので運転中は外すことにしていました。
「うーん、どうしたものか」
そんなことを思いながらも、メガネによる恩恵に酔いしれていました。
凄まじい「メガネ酔」
特に「かなりの古本」は漢字が画数の多い旧字で、しかも原始的な明朝体、しかも文字は小さい、という絶望的な読みにくさです。
ただでさえ旧字と旧仮名遣いで苦戦しているところに、そんな試練までプラスされたらヘトヘトになります。とりあえず本を読むときだけはメガネをすることにしました。
すると凄まじい「メガネ酔」が起こるようになってしまいました。
ということで、「世界は見えすぎないほうがいい」ということにしました。確かにその時に少し思っていました。よく商売に走る大人が「生活のために仕方ないんだ」という言い訳のもと、なんでもやってしまう、ということを見たくない、と同じことにしようということになりました。
それからもやはり目が苦しい時にはちょくちょくかけるようになりました。
眼精疲労
人の疲れは1/4くらいが眼精疲労というのを聞いたことがあります。確かに神経が疲れた、と感じるのは目ですね。明るいところで眠ってしまうと、目は腫れっぱなしだったりして、疲れが取れた気がしません。
メガネをかけたほうが疲れるので、もうかけるのをやめました。「それも慣れですよ」と周りには言われましたが、「別に見えなくてもいいや」と思ったので、もうメガネはかけないことにしました。
結構な力み
昔なにかの本で読んだのですが、目を休めているつもりでも目の周りには結構力が入っています。目の周りに意識を集中して意図的に「休んでくださいよ」と思うと、結構緩んでいたと思っていた目の周りがさらに数段緩くなります。ということはやはり力んでいたということです。
完全な休息モードを僕に仕込んだのは我が養子のうさぎです。力の抜き方を学ぶには動き回って獲物を狙うことをすることのない「草食」に聞いてみるのもいいかもしれませんね。
遠くの緑
ところで「遠くの緑を見るといい」という言葉があります。その言葉を鵜呑みにした小学生の僕は、「腹を冷やすな」と言われて腹だけを温めたように、折り紙の「緑」を部屋の隅において、反対側の隅からじーっと見ていました。
次の視力測定でまた数値が下がると「ゲームを取り上げられる」と思っていたので、視力回復に必死です。「ゲームをした分、緑を見るんだ!」そういう少年時代を過ごした人とはすぐに友達になれそうです。
いざ視力!
「視力を回復するためには」、というようなことをよく見たり聞いたりしますが、メガネを手放してから勝手に視力が回復してきました。特に視力回復にいい食べ物を摂ったわけでも、なにかのトレーニングをしたわけでもありません。強いて言うなら自然の中に行くことが多くなったくらいでしょうか。
「何も気にせず、ただ見る」と思うだけでいいのかもしれません。「見たくないもの」を減らせば減らすほど、はっきり見えるようになってきます。
力んで「きちんと見よう」というものではなくて、ただただニュートラルな気持ちで目の前を見るだけで、視力だって勝手に回復します。
「もっと見えてくれ」という感じではなく、「視力が回復したらなぁ」という類でもなくて、「さあ見ようか」くらいの感覚です。
これは僕のただの感想であり、現在の印象です。
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