ネット空間での人格

古くは掲示板、最近では動画共有サイトや匿名系SNSなどなどでの振る舞いがよく問題になっていますが、考えてみるとネット空間においては、少なからず人格が変容しているのではないかということを思っています。

一部の人において、それは「その人のその部分」というような一部的なものではなくて、インターネットに触れている時は全く別の人格になっているというような感じです。

匿名性がある方が、普段の主要な社会的役割の制限なく自由に活発な議論ができるというメリットがあります。

例えば、会社勤めの人で性同一性障害のある人が実名でそうした話題をすることはなかなかできませんし、政治的・宗教的な思想に関しても実名での議論は難しいものです。

結局、誰が発信したかという事自体があまり意味を持たないものであれば、匿名性が高いほうが広い範囲で自由な話をすることができるというメリットはあります。

しかしながら、そうしたメリットの一方で、本人は暇つぶしのその場の気分で書いたようなことでも、人を傷つけたり、企業に損害を与えたりということが起こるリスクは常にあります。

短文コメントによる名誉毀損と違法性阻却事由

最近では、動画共有サイトやブックマーク系サイト等々で「短文コメント」が当たり前のように為されています。そうした時代背景の中、名誉毀損や信用毀損が問題になることもありますし、違法性阻却事由についてある程度押さえておく必要はあるのではないかということで、「そろそろ義務教育で取り扱ってはどうですか?」ということを思ったりすることがあります。

刑法的な問題なので、知らなかったでは済まされない部分になりますし、知らぬ間に犯罪者になってしまうからです。

といっても警察官の方ですら「意見」と「名誉毀損や信用毀損」の線引を理解していない人もいますし、違法性阻却事由についての厳しい要件もよくわかっていない人もいたりします。

まあ詳しくは弁護士の方などなど、専門家の人の範囲になりますが、基本的なことくらいは押さえておいたほうが無難です。

一度うちの会社でも信用毀損事件がありましたが、それが繰り広げられていたネットサービス会社の総務担当ですら違法性阻却事由を理解していなかったりするので笑いものです(ちなみに該当部分削除等によって許してあげました)。上場企業が笑わせるなという感じです。

うちの法務は強いですよ。

名誉毀損の基本的な構成要件

刑法第230条

公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する

  1. それが事実であっても事実でなくても
  2. それを不特定多数を相手に摘示し
  3. 特定の人(自然人・法人)の名誉を毀損すること

ということなので、短文コメントであろうが、すぐに当てはまります。ネット上でオープンにされている状態であれば、「不特定多数を相手に摘示し」に当てはまりますからね。なお、これは「認識しうる状態」で十分なので、そんなにみんなに見られてはいないというのは通用しません。

事実の摘示によって社会的評価を低下させた場合は名誉毀損罪が成立します。また、企業の信用を毀損した場合は信用毀損になります(細かいところをツッコむと信用毀損罪の場合は虚偽の事実であることが構成要件となります)。

なお、意見や論評などで、事実の摘示以外の方法によって社会的評価を低下させた場合には侮辱罪が成立します。

事実を摘示した場合だけでなく意見ないし論評であっても社会的評価が低下すれば民法上で名誉毀損による不法行為が成立しますので損害賠償請求されてしまうこともあります。

だから短文コメントでも危ないですよ。

でも、一応こうしたものに当てはまっても違法性阻却事由があれば罪にはなりません。

逆に言うと違法性阻却事由がなければ、犯罪になってしまいます。

ということなので、短文コメントのほうが危なかったりします。

名誉毀損の違法性阻却事由

で、名誉毀損の違法性阻却事由ですが、まあ刑法230の2ですね。

刑法第230条の2

前条第1項の行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。

まあ簡単に言うと

  1. 公益性があること
  2. 事実の摘示が公益を図ることを目的とするものであること
  3. 摘示されたことが事実であり、事実であることの証明・根拠が示されていること

という感じです。

短文コメントでは違法性阻却事由を満たせない

そこで考えてみたいのが、短文コメントで違法性阻却事由を満たすことができるのかという点です。

まあほとんど無理でしょう。気分だけで書いているものや妄想ばかりですからね。

短文コメントで違法性阻却事由の要件を満たすような証明・根拠を示すことなどほとんど不可能なんですよ。

一行の短文で根拠の提示なんてほとんど無理だと思います。

まあ意見は好きなだけ言えばいいのですが、論証されていないものばかりですからね。

しかしながら、一歩間違えると犯罪になります。だから義務教育で教えたほうがいいと思っています。

もちろん表現の自由との兼ね合いもありますが、短文コメントだから許されるというわけでもない上に、短文コメントだからこそ違法性阻却事由が満たせないという部分もあるはずです。

根拠として何の提示もないと「意見や議論にすらなっていない」ということなので違法性阻却事由を満たすことができません。究極的なところで証拠や証明で対抗できる準備はあるのかというところが問題になります。

生兵法とレトリック

そんな感じなので、なるべく義務教育で教えたほうがいいのではないかと思っています。

ただ、本題はそこではありません。

コメント行為を行う人の人格の変容です。

短文コメントのサブリミナル効果

そうした短文のコメントのほうが、サブリミナル的によく効いてしまうという側面を持っています(サブリミナル効果)。

例えば動画共有サイトで本編の動画自体の内容よりも、短文のコメント欄のほうが印象に残っている、という経験はないでしょうか?

まだそれが思い出せるだけサブリミナル領域ではないので安心ですが、無意識に観念が植え付けられていってしまうという危険性があります。

また仮に思い出したとすれば、それはそれで意識に上りつつも強烈なインパクトを受けているということになります。

本人が一番危険

ただ、こうした構造を持ちながらも特に危ないのは、インターネット空間にいる時に人格が変わってしまうという性向を持っている人です。

おそらくもう多重人格と言っても過言ではないでしょう。

その中で、インターネット空間にいる時間が長く、その空間の方により強い臨場感を感じている場合は、既に人生がネット空間の人格中心に動いていることになります。

そしてそれが、あまり良くない方向に行った場合、つまり気分を根拠としたような誹謗中傷の方向などにいってしまった場合は、その人の人格にさらに影響を与えてしまい負のスパイラルが始まる恐れがあります。

それは、被害を受ける人にとっても迷惑ですが、本人にとっても自己洗脳を行ってしまう事になりかねず、本人が一番危険です。

自分をマインドコントロールしてしまう

例えばコメントという行動をよく起こしていた場合、インターネット空間に臨場感を感じているはずです。

通常の生活と比較して、画面の中に意識が集中し、さらにコメント行動を起こしているのであれば画面の中のテキストに最も強い臨場感を感じているはずです。

その状態だとどうしても自分で書いたコメントがセルフトークと同じ役割を果たしてしまいます。

つまりネガティブな発言をすればするほど、それがセルフトークとなり、いわばアファメーションと同じように自分をマインドコントロールしてしまうことになります。

よく指を指して相手にモノを申すとき、1本は相手を、そして3本は自分に向かって指しているというような例えがされることがあります。

相手に指を指して「やっぱりあなたは天才だ」と言えば、その3倍はあなた自身が自分に向かって「やっぱりあなたは天才だ」と言っていることになります。

そしてその言語と紐付いた体感自体があれば、その体感を感じます。そして自分が自分自身をどう評価し、どういった存在であるのかという自己認識に影響を与えます。

それが逆だった場合、意識が良くない方向に行くことは言うまでもありません。

負のスパイラルが続いているのならば

そうした感じで、インターネットにばかり触れていて、さらにその行動がネガティブな行動ばかりである場合、既にネット空間の人格に本来の人格が喰らいつくされていると言っても良いでしょう。

その状況で、負のスパイラルが続いているのであれば、別の空間に強烈な臨場感を持ち、人格を取り戻すというのがベストだと考えられます。

いくらインターネット空間に臨場感を感じていると言っても、基本的にインターネットからさえ離れれば、物理空間の臨場感には勝てません。

ネット空間という場所に意識があることが快適であるという人格になっているので、最初のうちはかなりの抵抗感、不快感があるはずですが、ネット空間と切り離す形で普通の物理空間、特に社会生活の方に身を置くとすぐにそうした人格は壊れていくでしょう。

物理空間の方に身を置くということだけであれば、旅でもいいですし、社会生活と言っても、別に働くことだけに限定されるわけではありません。

一応社会生活ということで他人とのかかわり合いというものが理想ですが、対象は友達でもいいですし、旅の途中のお店の人でも構いません。個人的には人でなくてもいいと思っていますが、ひとまずは人間のほうがいいでしょう。

ただし、友達であっても実際に会った時に顔を見て会話せず、スマートフォンなどを触りながら話す人は避けた方が良いでしょう。

それは、会話という言語の世界だけではなく、表情や声の質など他の五感要素に臨場感を感じることが大切だからです。

言語の世界だけで良ければインターネットと同じです。

動画は視覚情報、音声データがありますが、双方向ではなく一方的に流されることの多い情報です。そして解像度で考えても現実よりは必ず低いはずです。

スマートフォンなどを手放すことが考えられないという人がいますが、僕はそれが信じられません。

実際に手放さなくてもいいですが、あってもなくてもどちらでも良いという意識の状態のほうが必ず良いはずです。

なぜならその状態になれば、煩いが一つ減るからです。

ちなみに僕は相変わらず仕事用のガラケーしか使っていません。

しかも着信はだいたい3人位からしかありません。

会社の経営をしていてもそれで成り立つのです。

行動にあまり意味が無いどころか、悪い方向への自己マインドコントロールになっているのなら、手放すに越したことはありません。

時間をネット企業や同種の人間に奪われ、さらに人格まで奪われている場合ではありません。

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Category:IT &Internet パソコンとか通信とか

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