どのように観て何をどう語るか

最近は時間があるとすぐに読書をすることにしています。また、AIを使うことが極端に減りました(さらに使い方が上手くなってきたのでしょう)。

そして、徹底的に人を観察しています。これは「分析」とは異なり、状態と方向と歪みを観るというような感じです。

自分の観察だけでもいいのですが、一応の「外界」の観察も徹底的にというような感じで過ごしています。

結果的に、自分自身の体調がかなり良くなり、さらに緊張度もどんどん減ってきています。問題の解決も瞬間的になってきています。

一番の観察ポイントは緊張です。体のどの部分にどのような反応がありその間の発話内容とどのように関係しているかということを相手の脳の電気信号を観るように観察しています。

そして考えるとすれば「どのように調整すれば、その人が最も楽になれるか」ということを考えています。

さらにいうと、より一層AI等で情報をそのまま提示することがいかに効率が悪いかというようなことをヒシヒシと感じています。

ギュッと要約された「正しい情報」を読むことで、それで良いのかということです。

少し段階を上げて考えると、正しい情報を得たいという意図自体は、何かの方向に従っていますが、その方法や解決プロセス自体が「正しい」とは限りません。

表面的な言動をそのまま解釈したり、多少の解釈可能性を検討してみたりということは、かなり浅いと言うようなことはもちろん、正しい情報を正しく受け取るということそのもの自体の価値にかなり意味のなさを感じたりしています。

やはり究極的な目的というか方向は「安穏」であるため、中間の様々な方法は、「適切ではない」という可能性が大いにあります。

もはや普通のことを普通に話すこと自体、完全な論理性でガチガチにすること自体に意義を感じなくなってきました。

が、それもひとつのやり方、方法論として選択可能ではあります。

論理でこてんぱんにすることもできますが、そうすることは適切ではないかもしれません。

しかし、そのやり方が最も良いのであれば、それを選ぶこともできるというような感じです。

いま一番面白そうだと思っていることをあえて話すと、「一貫性の保持ではなく一括で」という点です。それだけではわからないため、構造を示しておきます。

これは例えばAさんを導きたいと思うとします。しかしその場にはBさんもいます。

Aさんの情報状態を調整するためにもし言語的なやりとりをする場合、Bさんにとっては僕の人間性を疑うような内容であったり、以前Bさんに話した内容と真逆の矛盾を含んだ内容が、調整に最適な会話内容だったとします。

この時、Bさんを気にして、つまり、Bさんの状態に影響を与えないため、自分の論理の一貫性を保つため等々の理由から、最適な内容ではなくなる可能性があります。

そこで普通はBさんに「Aさんのためである」と事前に伝えたりもするのでしょうが、そんなことをせずに、Aさんに語り、Bさんまでもがさらに良くなるような話を自然にできるようにということを意図しているというような感じです。

ミルトン・エリクソン氏の治療例を読んでたいてい爆笑していますが、本当に自分の小学校高学年~中学生くらいの時によく似ていると思ってしまったりします。

彼の話はよく「魔法」に例えられますが、そうした印象は全くありません。

元々小学校六年生で20世紀少年の「ともだち」の方向に向かっていたくらいなので(小6事件① 事件と「ともだち化」の始まり)、やはり根本的にはそうしたものが向いているのだと思います。

ただ、病中の時から、「社会の中の自分」にはさほど興味がなく、この心の「苦の消滅」に焦点が当たっているため、社会の中で利用という名の悪用をすることはありません。

それで最近、やたらと話題に出てくる某政治家の方の「構文」ですが、全くおかしく感じなくなってきました。

むしろ、最初の語の意味と後で語った語の意味の指すところが「同じ言葉ながら指すところが違う」というだけで、そんなにおかしいか?とすら思っています。

(ソシュール的な「言語学的な説明」をすることもできますが、あまり詳しく語るのは野暮だと思っています)

ちなみに僕の親友は、そうした「構文」と重複率95%くらいなので、僕は慣れています。

たぶん素であり、意図的なものではないとは思いますが、そうした話し方のほうが相手が変性意識に入りやすく、いわば催眠導入、トランス誘導の技法のような構造になっているので「職務の上ではそれが上手く働いているのではないか?」とすら思ってしまいます。

考えてみると、某政治家の方や僕の親友はそれを素でやっていますが、小6~の時の僕は、場面に応じてそれを意図的にやっていました。

それを意図的にやるということ自体は、経験則的なものでした。

そうなると、厳密に正しく語ることがそれほど正しいのかどうかに疑いがかかります。

「正しく語らなければならない」ということ自体が歪んだ固定観念と考えることもできます。

これは文字であれ動画であれ、記録が残りやすい現代の環境がもたらした一種の強迫観念のような気もしています。

Category:miscellaneous notes 雑記

「どのように観て何をどう語るか」への4件のフィードバック

  1. こんにちは。

    ここ最近の投稿でエリクソンに触れられていて、私も読んでみようと思うのですが、読む際にBossuさん的にどのあたりがポイントにしてみたらよいと思われますか?
    (近隣の図書館には本人が書いたものがなかったので、色んなセッションの様子が載っている比較的最近のものを手にしようかなと思っています。)

    ぱっと思い浮かぶところでの私とBossuさんと共通項になる作品としては、水木しげる作品(代表作や戦記物)、『火の鳥』、『みどりのマキバオー』、聖書、中村元訳の仏陀の言行録、ドラえもんの1~5巻です。(Bossuさんの投稿で今までこれといって接してこなかったドラえもんを手に取るようになり、その面白さに触れられました。ありがとうございます。)

    また、読書で以外では落語(主に江戸)、大滝さん、加藤和彦さん、椎名林檎さんの楽曲群、『博士の異常な愛情』、『時計じかけのオレンジ』あたりも共通項です。(『素晴らしき哉、人生』、『冷たい熱帯魚』もここで知ることができました。)

    1. コメントありがとうございます。
      本人が書いているという点で限定すれば、ロッシ氏との共著ばかりになっています。
      ロッシ氏、オハンロン氏、ザイク氏・ムニオン氏あたりなら直接的な弟子なので大丈夫だと思います。

      ポイントは、
      「なぜ学者はエリクソンを難しい、再現性がないと感じるのだろう?これは当たり前のことではないのだろうか?」という視点で読んでみることかもしれません。

      原始仏教経典的と同様「なぜ厳密性のある文語ではなく曖昧で抽象的な口語表現なのか?」というような点に着目すると面白かもしれませんね。

      1. ご返信、並びに著者のご紹介ありがとうございます。

        もう少し、質問させて下さい。

        先に私のコメントで挙げさせてもらった作品群の中に、Bossuさんがぱっと思われるところでエリクソン的振る舞いやアプローチをしている人物がいたり、シーンがあったりはしますか?

        また、Bossuさんが充実した読書ができているときにご自身の中でどのようなことが起こってらっしゃると感じていますか?(他の読書系の投稿などでお答えになってましたらごめんなさい。)

        1. 原始仏教経典や新約聖書にはたくさん含まれていると思います。相手によって表現が異なり、字義的に見ると「は?」となるようなものほど、その傾向があるかもしれません。

          充実した読書中は、その情報宇宙に99%くらい入っていると思います。気づけばパントマイムのようなことをしています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ