透明な水であって、ポープの言葉を借りて言えば、「その流れの底にあるきたないものを見えるようにさせる」人間たちを、私は愛する。しかし彼らにとってさえやはり虚栄心がある。もちろんめったにない洗練された種類のものではあるが、彼らのうちの二三人は、われわれがまさに不潔なものだけを見て、このことを可能にする水の透明度を無視する事を望む。余人ならぬゴータマ・ブッダは、「諸君の罪を人々の前に見えるようにさせて、諸君の徳を隠せ!」という定式で、これら少数の人たちの虚栄心を考え出した。しかしこれはすばらしい演劇を世界に与えないことを意味する。― それは趣味に逆らう罪である。 曙光 558
すばらしい演劇ということで、少し演技について書いていきましょう。あえて演技にしたのは、構成要素として他の文化芸術の分野よりもわかりやすいからです。
寒い演技ほど、寒いものはありません。未だに演劇で感激をしたことがないどころか大半はその演技に寒気を感じてしまったことしかありません。
そしてその寒さというものは、対象を言語的に捉えており、氷山の一角しか捉えられていないことに原因があります。
車の運転をしている時
車の運転をしているシーンがあったとして、車の運転をしたことがない人がそんな演技をしたとしても、何か足りず、どこかぎこちないはずです。
なぜなら「車を運転する」ということを具に分解していくと、ただ単にアクセルとブレーキを使い分けてハンドル操作をしているだけでなく、エンジンの回転具合を含めた外界の情報をすべて無意識上で捉えているからです。
でないと、エンジンの異音に気付いたりブレーキの不調に気付くことはありません。
車を運転しているときは、単にハンドルを握っているだけでなく、路面からタイヤに伝わる振動なんかもハンドルやシートから捉えているわけです。
無意識で捉えている対象
そういうわけで、たったひとつの動作にも、その動作・運動以外に無意識で捉えているような対象がたくさんあります。
車を運転したことがない人であれば、自転車でもそれを捉えることができます。それどころか歩いているときでも、何気なくいろいろなものに注意を向けているはずです。
後ろから光が来たら車か何かが近づいてくるということがわかるはずです。でもそれは、意識して「光が来たら車か何かがくるぞ」と思っていなくても、そのようなことに注意を向けているはずです。
意識に上っていなくても、ということで無意識です。
で、そうした無意識の再現も、障害がない限り歩くくらいなら体験済みですが、車の運転をしたことがない人が車の運転のシーンを演じようと思っても、どういう要素があるのかはある程度運転してみないとわからないので、無意識レベルでの演技はできないのです。
そういうわけで、サラリーマンをしたことがない人がサラリーマン役をしようと思っても厳しいものがあるのです。
深いところが掴めない
一応どのような演技をしようにもそれっぽいことはできます。
しかし心底様々な無意識レベルでの心理状態を掴めていないと、本物っぽくは見えません。表面上の言語的な再現はできますが、深いところは未体験ゾーンであり、何も掴めていないからです。
しかしながら本物っぽく見えなくても騙されてしまう人はいます。そうした人たちはおそらく、言語としてしか情報をキャッチしていないからという感じになりましょう。
目の動き
目を見れば嘘が見抜ける、ということなことが言われることがありますが、人の思考は目の動き、眼球の運動と関係しています。
そういうわけで、目と目を合わせるだけで、思考状態が伝わったりします。
感受性が強い人はそうしたものを捉える能力も長けているでしょう。そして鈍感な人は気付かないという感じです。
ということは、そうした目に着目すれば、実際に体験していなくても何某かはつかめるかもしれません。
目を止めると思考が止まる
なお、余談ですが、一点を見つめて催眠状態に持っていくというようなものがあります。そんな感じで目を止めると思考が止まります。
正確に言うと、自分の思考の影響力を無くしてくことができるのです。もちろん意識が完全になくなるわけではありません。
だからこそ、術者の言葉が自分の思考の代わりとなり、変な動きをしたりしてしまうのです。
しかしその徳もまた隠すな! 曙光 558
未だに演劇で感動したことがなく、演劇、舞台、芝居と言われる類においては、ほとんどの場合強烈な寒気がして鳥肌が立ち「見ているこちらが恥ずかしい」という気分にしかなったことがありません。
しかし、僕がまだ素晴らしい演劇、素晴らしい演技に出会っていないだけかもしれないという側面は見逃せません。そういうわけなので、一度でいいので演劇でブラボーと叫んでみたい、感動するほどの演技に出会ってみたいという気持ちが若干あります。
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