近々、沈むまで夕日を眺めよう

太陽が眩しくなってきた季節、本当は明日にでも、ということを思いますが、雨模様になるかもしれない、ということで近々ということにしておきましょう。

沈むまで、夕日を眺めるようなこと、特に一人でそれを味わうようなことをしてみたくなりました。

一人でそんなことをしたのは、最後がいつだったのかはわかりません。

夕日を眺めること自体はありましたが、娘と一緒か、妻と一緒か、それとも友だちや仕事関係の人と駅で少しだけ、というようなことばかりで、一人で味わうということなど、最後がいつだったのかが思い出せません。

厳密に言えば、一人で山の方に行ったりした時に、そうしたチャンスはあったはずですが、せかせかと歩くことに気を取られ、夕日が沈んでいく様をあまりきちんと見た記憶がありません。

コロナ環境になった時から、さらに娘と過ごしたりして、接する人の数は激減しました。

そこで何かが頑なになっているとしても、それは接する人の数が減ったこと自体が問題ではないと思っています。

あまりにも、一人の空間がなさすぎたこと。それに尽きます。

さらにAIや動画等々の情報源の精度が上がると、仮観的な自我の視点が強化されます。それらがいけないわけではありませんが、「現在主流の統計に基づいたもの」が、意識を引っ張ってしまいます。

これは、まさに「生存本能による恐怖心から駆動する思考」たる自我がその存在意義を保つために、とても都合の良い状況です。

本来、自我には何もできませんし、何ももたらすことはできません。その割に、単にその存在意義を保つために、何でも利用するという程度です。

しかし、もちろん適しする必要はありません。

健気で不器用なもの、として扱っておけばそれで十分です。

心配して「考える」のですが、その心配というもの自体が緊張を生んで逆効果になるというようなことがほとんどです。

まだ成長段階の子どものようなものです。

娯楽を含めて、デジタル的なものは意図的になるべくやめています。無理してやめているわけではないのですが、ちょっとした意図が生じても、「多少なりとドーパミンが足りない感じがするだけか」と流しています。

「役立つような情報を探す」というようなことに関しても

「インプットは不要」ということで流しています。

何にしても、高刺激、高負荷ということをしていると、頭が腫れ、また、それに耐えるために、様々な感度が鈍くなります。

その状態で選ぶものは、より素晴らしいものを選ぶ視点を曇らせてしまうかもしれません。

あらゆることを非難することなく、安らぎの中に向かうには、経済社会等々の中では明らかに無駄そうな、「沈むまで夕日を眺める」ということを許可することです。

これは、少しでも自我の引力から逃れるということにつながります。

多分、この季節の夕日を眺めると、顔はしかめっ面になるのではないかと思います。

でも、日が沈む頃には、しかめっ面を続けていた分、穏やかな顔をしているかもしれません。

Category:miscellaneous notes 雑記

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