諸君は彼がわかっていない!そうだ彼は人間と事物とに軽々と、自発的に服従し、双方に対して好意をもつ。彼のただひとつの願いは、妨げられないということである。― しかしただ人間と事物とが要求することのない間だけである。あらゆる要求は、彼の誇りを高くし、遠慮させ、しかも勇敢にする。 曙光 498
昔から欲はあまりなく、怒りが強い気質です。もちろん根本は同じなのですが、傍からは欲に見えても、本人的には怒りであることがよくあります。
例えば「彼女がほしい」と言っても、欲々しい欲ではなく、「彼女がいないことによってソワソワする気持ちを排除したい」と、見る方向を変えれば、怒りの性質っぽいことも見えてきます。
欲も怒りも発端はアイツこと自我の錯覚から起こっている感情です。その錯覚は無明や無知という風に表現されることもあります。
さて今回は、お題が「要求するな!」となっています。
「人を助けること」自体は、良いことかもしれませんが、「助けること」が主軸になり、「助けなければ」と煩悶するということ自体は、良いことではありません。
それはひとつの欲であり、怒りです。
使命感と善行
使命感に燃えるのは良いですが、その使命感と使命が安らぎを邪魔するものであっては本末転倒です。
アイツの最も巧妙なやり口です。
行動をしてはいけない、というわけではないのですが、「善行」みたいなことを結局条件にして、自分の権威を復活させようとしてきます。
「良いことをする」「誰かを助ける」「人と仲良くする」ということを安らぎの条件にしてしまった場合、それとは真逆な事をしているような人を見るだけで、意識がかき乱されてしまいます。
また、どこまで良いことをすればよいのか、という量的、質的な問題も生じてきます。どの程度以上ならば「良い」ということになるのか、というような意識です(際限のない「何をどこまで」を防ぐ表現)。
それらのことをして、プラスに働く面と、マイナスに働く面を見切らねば、義務教育の標語にあるようなことをしても、結局アイツの餌食になります。
せっかくの行動や意識が台無しになるといった例です。
要求と訴えと「所有」
これには手前に何かの状態を望むという「要求」があります。
使命感に燃えている場合は、それが「訴え」くらいにまでなっているでしょう。そして、それには主語などになる対象があり、また、「所有」という大前提があります。
幸せな家庭を築いても、それが壊れることへの恐怖がマイナス面で起こります。
所有しているからこそ起こる
あるものを持つことやある対象から生じる幸福感は失う恐怖とセットになっています。この手の煩いは「所有しているからこそ起こる」、という性質からは逃れることができません。
しかしながら、所有しないことによって、逃れられるということもありますが、所有しないことによって我慢し、渇望感が生まれることもあります。
捨てたつもりでも、根深く渇望感の火種が残っていることがよくあります。
問題は、傍から見て所有しているかしていないか、という権利関係ではなく、意識が対象をどう捉えているかです。
要求の前提には、一般的な「所有」が必ずあります。
「所有している」としても、その「所有」をどう定義しているかによって、煩悶具合は変わってくるでしょう。
要求するな! 曙光 498
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