考えうる将来から

すごく単純なことなのですが、「夢と責任」などで、安易に夢を聞くこと自体が夢を潰している可能性があるということについて触れたことがあります。

幼い時、若いときの少ない情報量でカテゴライズされた中から一つを選ばせるということは、視野を狭め、その他の可能性を排除することになりかねないからです。

そんな時期に「将来の夢は何?」と聞くことは、様々な分野、可能性への興味関心を奪ってしまう可能性があります。

さて、僕が小学校低学年の頃は、インターネット自体が存在していませんでした。おそらく一応存在はしていましたが、まだまだ軍事利用の研究段階だったりで、実際に一般に普及しだしたのは高学年から中学生くらい、その後現在ではスマートフォンも普及し、YouTubeなどで誰もが簡単に動画を公開したりできる世の中になりました。

こうしたことはある程度予測できるのかもしれませんが、何かの技術が生まれ、インフラが整備され、そこから新しい形の事業などが生まれてくる可能性はいつの時代でもありえます。

「端倪すべからざる」ということで、自分がまだ中高生のときには想像もできなかったような事業、仕事の内容など、凄まじい可能性を秘めているはずです。

ということで夢や目標、ビジョンと言われるようなものを持つとしてもすごく抽象的で壮大なものをひとつ持っているだけで十分だと思っています。

世の中から無駄な悲しみを無くす

ということで、今回は僕の中の夢(笑)ことビジョンを少しご紹介しておきましょう。

それはすごく単純で抽象的なことですが、「世の中から無駄な悲しみを無くす」という感じです。

元々怒りが強い性格で、かつ、幸せは加点ではなく、マイナス要因を外していくこと(というよりも錯覚の領域から出ること)であると悟っています。

この「世の中から無駄な悲しみを無くす」というところですが、それは無駄な争いや戦争、差別を無くすということにもつながっています。

しかしながら「振られて悲しいや」というものは、別にあってもいいと思っています。

でも、「差別のせいで恋がスタート地点から実らなかった」というのは無駄な悲しみです。

こんなことを思い始めたのは、「ほんの少し感傷的な昼下がり」の思い出が大きなきっかけになっています。

パズドラの功績

ここでいきなり、俗物っぽいことを書きます。

たくさんのゲームアプリが出ている中、パズドラは奇跡的なブームになりました。

最近ではどうなのかわかりませんが、ひとまず、それまでのゲームと大きく異なっていたこと(はたくさんありますが)の中で最も注目すべきところは「無課金でもなんとかなる」という点です。

たいていのゲームは「収益のために」ということなのか、課金しないと進めない仕組みになっていたり、バトルでも課金組が圧勝するという構造になっています。

ところがパズドラは、無課金組でも「育てることである程度使えるキャラ」を設置したり、事あるごとに何かしらの理由をつけて課金対象である魔法石をばら撒きました。

最近ではそうした成功法則を真似ているゲームもあると思いますが、ひとまずパズドラが出だした頃からこうした構造が知れ渡るまでの間に出て下火になったゲームは「結局課金組しか楽しめない」というものでした。

でもそうなると、結局ゲームの世界でも「金持ちが上かよ。どうあがいても勝てないのかよ」ということになります。生まれ育った環境がこんなところにも影響するのか、ということです。

そうなると愕然としてしまいます。でも、ある程度スタートで差はつくのは仕方ないとして、「自助努力(?)でなんとかなるのなら」と思えるような仕組みであることがそういうがっかりをなくしていくと思います。

まあこうしたことをガンホーの社長、森下さんのインタビュー記事で知ったのですが、僕の中の「世の中から無駄な悲しみを無くす」は、こうした感じの表れ方でもいいわけです。

だからって慈善事業じゃなくてもいい

普通「世の中から無駄な悲しみを無くす」なんてなことを夢だなんて言うと、「じゃあユニセフみたいなところに就職しなさい」とかそんなことを言う人がいます。

また、「いっそ宗教団体設立ですね」とかそんなことを言う人もいます。「総理大臣を目指したらどうですか?」とかね。

でも、そういう人はバカなんだと思います。

「世の中から無駄な悲しみを無くす」と言っても、別に出方はどうあってもいいわけです。

例えば、世の中の大企業が一流大学卒で卒業時22歳の人しか採らないという感じで言っていても(まあ採用コストの問題ですけどね)、それより魅力的な会社を作って、「入試は容赦しませんが、学歴・年齢等々は不問です」というような会社をつくるのも、相対的にみればそうした学歴差別的なものを排除する一つの要因になるわけです。

人間に限定しない

ただ、僕は対象が人間に限定されているわけではありません。動物も植物も虫も細菌も全てに幸せでいてほしいと思っています。苦しみがあれば、それが取り除かれるようにと思っています。

どうしても生命の構造上、食物連鎖や戦いがあるのは仕方ありません。こうしている今も僕の身体は細菌やウイルスを殺していますから、どうすることもできません。

しかしながら、無駄な恐怖心、無駄な欲、無駄な怒りによって、自然界の自然なルールを逸脱した「感情による殺生」や「虐待」はしてはいけません。

もし、自分や自分の子供が、腹をすかせたライオンに食べられた時と、宇宙人に遊び道具にされた場合とを比較して考えてみましょう。ただ単なる遊び道具として手足をもぎ取られていくということを想像してみてください。

想像するにも辟易しますが、相手が虫だからいってこれと同じようなことをしている人がいます。これが感情による虐待です。

こうした感情による殺生が人を幸せにすることはありません。幸せのためであれば、他の生き物を苦しめ、殺してもよいという「心の安穏条件」を保有しているからです。他の生き物を殺してはならないという不殺生戒の本質はそんなところにあると思っています。そしてそれは人を殺してはいけない理由にも通じています「不殺生戒と人を殺してはいけない理由」。

誰よりも幸せでいること

またまた俗物っぽいことについてお話しますが、誹謗中傷被害に遭ったスマイリーキクチさんが「一番の仕返しはね、自分が幸せでいることなんです」というようなことを言っていました。

それが本質だと思っています。

自分の夢が「世の中から無駄な悲しみを無くす」ということだとしても、究極的には、社会、つまり他人の状態を自分の幸せの条件にするなんてバカらしいんです。

だから事の発端は、「ほんの少し感傷的な昼下がり」で触れた「娘がこんな負け組と」という態度を取った当時の彼女のお母さんですが、その人を説得する必要も見返す必要もないんです。

僕が誰よりも幸せそうにしていれば、勝手に悔やんで歯ぎしりするか、ルサンチマンに陥るのがせいぜいです。

いずれにしても僕には関係がありません。そのお母さんを苦しめているのは、その方が持っている偏見であり、考え方です。それが勝手に変わればいいですが、究極的には変わってもらわなくても構いません。

だから、そうしたビジョンみたいなものを常に保持しながら、常に幸せでいて、あとは自動に展開していくのを楽しみにしていればいい、そう思っています。

「慈しみ」というか「慈悲」

「世の中から無駄な悲しみを無くす」とは表現しましたが、もう少しおカタく表現すると「慈しみ」というか「慈悲」になりましょうか。

あらあら、まるでスッタニパータになってしまいましたね。

「遠隔歯軋り」と「慈しみ」 スッタニパータより

考えうる将来から 曙光 187

Category:曙光(ニーチェ) / 第三書

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