「この『総員玉砕せよ!』という物語は、九十パーセントは事実です」
と、あとがき「あの場所をそうにまでして…」で記されているように、水木しげる氏の実体験に基づく「ほぼノンフィクション戦記物」である「総員玉砕せよ!」。
一年ちょっとくらいになりますが、「水木しげる 魂の漫画展」に行った時に知ってその場で買いました。「総員玉砕せよ!」の単行本の初版は1991年10月のようで、その時購入した講談社文庫も1995年6月に出ていたようですが、その日まで存在すら知りませんでした。なお、「総員玉砕せよ!聖ジョージ岬・哀歌」という題で書き下ろし長編として世に出たのは1973年8月。僕が生まれるよりも十年くらい前ということになります。
アニメ・漫画ならばゲゲゲの鬼太郎・墓場鬼太郎や悪魔くん(悪魔くんは世代ですね)、コケカキイキイ、書籍なら妖怪事典や妖怪画談といったように、ほぼ妖怪モノしか水木しげる氏を知りませんでしたが、最近知ったものではほぼありえない「友達に電話してすぐに薦める作品」という感じで「いいなぁ」と思いました。
近代の歴史に対する姿勢
僕は昔から、近代の歴史とか戦争モノを避ける傾向にあります。
その理由は簡単で、近代の歴史などの記述は、現在にも残っている組織と関係があるので、どれが本物でどれが嘘かがわからず、さらに何かを採用すると凝り固まった主義を持った人と喧嘩になるだけ、という属性を持っているからです。
「どれが真実か?」というところが、今現在の利害にすら影響を与えるようなものになるので、情報として恣意的なものが組み込まれていないと考えるほうが変です。
その一方で、知ったところで何ができるわけでもない、何がどう変わるわけでもないという感じなので、あまり関心がありません。
しかしながら、それに付随する形になりますが、もちろん教科書的に習ったことを真実として捉えているわけでもないという感じです。
歴史を根拠とすることもなければ、歴史を根拠とされても納得はしないという一種のフラットな立ち位置です。
ただ、それが事実かどうかはわからないものの、イメージの上での仮定としてであっても、理の目線から構造を把握するということはしています。
少なくとも自尊心の欠落やフラストレーションに対するカタルシスの踏み台にするというようなことはありません。
総員玉砕せよ!の舞台となるニューブリテン島
「総員玉砕せよ!」の詳しい内容については触れませんが、裏表紙等々に説明されるようなあらすじとして、昭和二十年三月三日、南太平洋のニューブリテン島バイエン(実際はズンゲン)における日本軍将兵たちの運命です。物語は昭和十八年末から始まります。
最高にリアルなのが、主人公丸山二等兵のゆるさです。
お偉いさんたちとの心意気のギャップが面白く真実味を高めています。例えるなら、全国大会目指してます系の鬼コーチと、「早く帰って炭酸飲みたい」という中学生のようなギャップです。
物語の全ては、
「あの場所をなぜ、そうにまでして守らねばならなかったのか」
というフレーズに集約されています。
あとがきのラストは次のように締めくくられています。
「ぼくは、それを耳にした時『フハッ』と空しい嘆息みたいな言葉が出るだけだった。あの場所をそうにまでして…。なんという空しい言葉だろう。死人(戦死者)に口はない。ぼくは戦記物をかくとわけのわからない怒りがこみ上げてきて仕方がない。多分戦死者の霊がそうさせているのではないかと思う」(「総員玉砕せよ!」p356,357 講談社文庫)
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僕個人としては、地名等々だけで違和感を感じたりします。「何が『ニューブリテン』だ、何が『聖ジョージ』だ」という感じです。
もちろん市民レベルで言えば、遠く離れた人同士、争う必要などなく、敵となる相手個人としては、私的な意図というよりも状況に応じた「どうしようもないこと」になってしまうでしょう。
しかしながら、ある一定の人達の暴走した自我によって、そうした普段は善良な市民たちが巻き込まれるというのが、その実際です。
「将校、下士官、馬、兵隊といわれる順位の軍隊で兵隊というものは”人間”ではなく馬以下の生物と思われていたから、ぼくは、玉砕で生き残るというのは卑怯ではなく、”人間”として最後の抵抗ではなかったかと思う」(「総員玉砕せよ!」p356 講談社文庫)
言語によるファイアーウォール
あえてファイアーウォールという言葉を使いますが、外国語を過剰に評価し、それが本当に市民レベルにまで浸透した時、母語と同等の立ち位置で「思考」で使用するようになった時、言語によるファイアーウォールは崩れます。なので、あくまで個人的な感想ですが、僕は過剰な語学教育推進は侵略の一環だと思っています。スキルとして持っておいて、「わかる」というところまではいいですが、そちらが軸になった時、強固な防壁は崩れ、ふとした時に侵略されると思っておくくらいが無難です。
ある時、異民族が村にやってきました。
「仲良くしましょう」
と言って、握手を求め、それに応じた原住民の長老たちは、友愛を期待し、村人たちは踊りを踊ったり、民芸品を手渡したり等、民族的なもてなしをしました。
そうして「友だちになれた」と思った瞬間、首をはねるのが侵略者です。
積み上げてきたものは奪われ、長老たちは死よりも辛い自責の念に苛まれるでしょう。
そして勝者が残した歴史書には、「友情を期待して安心した者の首をはねた者」に「聖」などという冠をつける、それが関の山です。
上層部たちの狂気
と、少し脱線しましたが、「総員玉砕せよ!」でも描写される上層部たちの狂気についてでも触れておきましょう。
上層部というほどの上層部ではありませんが、丸山二等兵たちを率いる隊長や参謀たちの狂気は、現代社会でもブラック企業などで垣間見れたりします。
まあマインドコントロールの結果であり、平常時の人格、根本人格とはまた異なった別物として弁護したいところですが、実際に周りを巻き込んでいるので笑って済ますことはできません。
そこで考えてみたいのが、コーチングやなんやらです。
まあつまりは「脇目も振らず自己実現にまっしぐら」ということに集中させるようなものですが、うまくいけば問題がないものの、たいていは、誰かに「利用される」のでろくな結果にはなりません。
戦争で利用されるような、「高度な思考をパスしてまっしぐら」というようなテクニックであり、まともな思考をしていては引き金が引けない中、ラッパの音を聞いたら突撃、敵を見たら何も考えずに狙撃する、という訓練という名のマインドコントロールと同じです。
それを応用して、たじろかず飛び込み訪問するとか、自信満々に営業するとか、そうしたことに使われていたりしますが、元は軍隊のラッパなどと同じです。
単に、感情を抑制して「前提の検討」といった思考を行わせず、目的遂行のためにはどんな手段でも取って邁進する、という人間を作り出すテクニックです。
傍から見れば、「だるい」と言ってサボりまくっていた人が、猛烈にやる気を出して働くので「ありがたいなぁ」ということになりそうですが、方向を間違えると無差別テロを行うカルトのようにもなるということを見逃してはなりません。
手前段階の前提を検討するという思考はパスされていますが、目標達成のためには、思考がフルで働きます。
「仲良くしましょう」と握手をしてから、気が緩んだ相手を難なく侵略するというような思考も、そうした狂気が生み出した産物ということになりましょう。
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そんな狂気が生まれるのもすべて恐怖心からであり、悲劇が生まれるのは「恐怖心を物理的現象で解決して安心したい」という自我の騒ぎが発端になっています。
欲や怒りを「仕方のないもの」と肯定し、外界に依存している限り、永久にやすらぎは訪れません。
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