これで2000記事目になります。ブログ創設から2000回目の投稿ということで「第2000回投稿記念」です。
前回の第1900回投稿記念は、2020年9月29日だったので、前回からの100記事は、1年3ヶ月くらいかけて投稿したという感じです。それまでに比べてかなりのローペースでした。
なお、第1000回投稿記念は、2017年9月20日だったので、4年3ヶ月ちょっとで1000記事を投稿したことになります。
さて、常連さんいつもご高覧ありがとうございます。
また、contactからご連絡いただいた方、投稿にコメントをいただいた方、ありがとうございます。毎度のことながらたくさんの気づきがありました。また前回から今回までの間にも単純に応援メッセージをいただいたりもよくしました。ありがたい限りです。
PC、タブレットなど機器の電源を切ったりする習慣ができたので、ご連絡が遅くなることもありますがご容赦下さい。なお、contact以外からのご連絡は確認が大幅に遅れることがありますのでご留意いただければと思います。
それではおなじみのアクセス解析から見るアクセス状況から投稿記念の回を進めていきましょう。
アクセス状況
前回の2020年9月29日から2021年12月26日までの間のユーザーさんの数は、141,781名であり、前期間(同一日数)は、314,257名なので、比較すると54.88%の減少という感じのようでした。
ずるむけのタイトルを避ける傾向にあるため、検索エンジンからは若干嫌われだしたようです。また、情報の信憑性に関わる部分での評価比重が変わってきたからか「個人ブログのため評価が下げられた」という部分があるような気もします。
男女比は男性51.93%、女性48.07%でした。前回に引き続き若干男性ユーザーさんの方が多くなってきました。
モバイルからのアクセスは70.36%でした。デスクトップは、26.88%、タブレットは2.76%でした。
ユーザーさんのエリアですが、今回もだいたい人口に比例している感じで東京、神奈川、大阪、愛知、埼玉、千葉、兵庫、北海道、福岡、京都という順でした。
23区を市扱いした上での都市別は、横浜市、大阪市、名古屋市、新宿区、港区、京都市、札幌市、福岡市、さいたま市、世田谷区という結果になりました。
日本以外からのアクセスは、やはりアメリカがダントツですが、それ以外としては順に、カナダ、韓国、台湾、イギリス、シンガポール、香港、ドイツ、オーストラリアといった感じでした。今回は70ヶ国からのアクセスが有りました。
アクセス経路としては、自然検索が87.7%、Directが10.2%という感じになっています。なお、ソーシャル経由のうちTwitterが89.19%を占めていました。
タイトルや内容に根拠的な固有名詞を含めたり等々、多少検索エンジンに合わせたような感じにするとアクセスは戻るのでしょうが、そうなると検索エンジンにコントロールされていることになります。なので、今まで通りにしようと思います。
数年前は安易なコメントも多かったですが(もちろん公開するに値しないものは削除しています)、アクセスが低下した分、質の高いコメントを頂く機会が多くなったような気がします。
ちなみに、サイドバーの「人気の記事です」には反映させていませんが、書庫の心理学は、トップで129970ビューほどあります。
年齢層
- 18-24 27.30%
- 25-34 26.34%
- 35-44 21.72%
- 45-54 12.24%
- 55-64 6.90%
- 65+ 5.49%
以前に比べて若年層の方からのアクセスが増えている傾向にあります。
サイト全体の本文文字数
本投稿を含む文字数は、
全投稿の本文文字数 4,748,298字
1投稿あたりの平均文字数 2,374字
でした。
(2022年1月3日に総文字数カウントを導入したため、本投稿の次の投稿からの字数を引いて算出しました)
サイト内検索
毎度おなじみサイト内検索です。
前回から今回までの間に検索されたワードは、3224ワードでした。
検索回数上位は、結婚、失敗、やる気、感情、怒り、やりたいこと、孤独、性欲、読書、ヴィパッサナーといったようなワードでした。特定記事への再訪のためか、文中に使用したワードでの検索も多い傾向にありました。
さて、そろそろ投稿記念の回らしくより個人的なことについてでも触れていきましょう。
英語と私
プロフィールにも記載している通り、僕は英語が苦手です。
しかしながら家系的には英語が得意な者が多く、弟は英語関係のけっこう難しい資格を持っていたりします。また、親戚には某公立大学の英語学の名誉教授の人がいたり、かなり遠い親戚には大手出版社にてずっと出版され続けている結構有名な英文学の翻訳をしたような人もいます。
ということで、学ぼうと思えば学べる環境にはありますが、困ったら弟に登場してもらうというような感じでやりすごしています。
苦手意識がある理由としては、日本語の方に関心がありすぎて、中途半端な理解では息苦しくなってしまうというのが一番の理由です。
例えるなら、楽器は上手くて歌は苦手というようなものに似ていると思います。歌を歌う時に喉などが上手く使えずに、正確なピッチや出したい音色がでないことに苛立つので、表現の方法として歌は避けてしまうというような感じです。
一応大学でも英語は全て最高のスコアでしたし(第二外国語の方はあまり良くありませんでした)、一人で海外旅行もできるくらいに一応話せるという感じなので「特に困っていない」という面もあります。ただ、全くできなくても本当に何の問題もないと思っています。
中途半端な理解では息苦しくなってしまうという点ですが、これはやはり母語であるならば上手く表現できるものを、表面をなぞるように最低限の表現しかできない、ということに苛立ちを感じるというようなものになります。
もうネイティブで、かつ口達者でないと解決できないような問題です。なので、問題にしないことにしています。困っていないので本当に問題がありません。
ただ、たまには”teke my hand,teke my whole life,too”というような歌詞(エルビス・プレスリーですね。ハイスタもカバーしていました)を見て、allではなくwholeである理由を考えて、一人で感慨深いものを感じていたりします。「すべて」を意味しますが、概念が異なります。
「これは数量的ではなく、ひとつを包括しつつ、過去だけではなく未来すら含めている。そしてそのひとつは、『自分と相手の人生が合わさったひとつの全体』かもしれない」
というようなことで一種のロマンを感じたりしているのですが、自分が表現する側になったとして、そんなふうな構造まで含めて文を作れるのか、というようなところで苛立ってしまうので、やはり文を解釈して楽しむ程度にしているという感じになります。
DXでモダナイゼーション
また、苛立ってしまう理由は他にもあります。先日、某外資系企業の広告に「DXでモダナイゼーション」という意味不明とも取れる文言が平気で書いてありました。
現代に適応しているということでモテたい人は語を検索してそうした知識を得、そして、若干の優越感にでも浸るのでしょう。
しかしながら、そうした言葉を道端のおばあさんに使って「ちょっと意味がわからんのやけど…」と言われているさまを想像すれば、カッコをつけようとしないほうがいいよ、と思ったりもしてこないでしょうか。
どこにXが入っとんねん!
よくわからない横文字を使うということも苛立ちますが、何より引っかかるのは「DX」という略し方です。
一応、文脈上「Digital Transformation」の略らしいのですが、まず普通の感覚として「どこにXが入っとんねん!」ということにならないでしょうか?
そして、さんざん今まで主流だった、Deluxe=DXについて、どう扱えというのか、という気分にもなってきます。
「ダウンタウンデジタルトランスフォーメーションかい?」
「スーパー桃太郎電鉄デジタルトランスフォーメーションかい?」
ということになってしまいます。
だいたい26文字しか無いものを、2文字で略語を作ろうということ自体が不便ですが、「Transformation」の略を「X」としたり、「Kansai International Airport」がどうして「KIX」なのか、という感覚が僕には理解できません(KIAだとパプアニューギニアのカイアピット空港と重複するためのようですが、略語と言うより空港コードではあるものの、だいたい国際空港がたくさんある中で3文字2文字を「IA」で使い、重複させやすくしているという発想自体が理解できません。26を超えたら重複しますからね)。
という感じで、感覚がわからないため、学ぶ気も失せるわけです。
といっても、もしかすると「Digital Transformation」については、「略を『DT』にはしたくなかった、ということなのかもしれない」と思うと少し面白かったりします。
言語学のひとつとしてたまに味わう
といっても弟と英語について話すこともあります。確か一般言語学講義に出てきたと朧気ながら記憶していますが、meetもmeatも古語では表記がmetであり、それでは区別しにくいため(文脈で判断する形だったのでしょう)、meetとmeatに分けられたというような話です(現代では、metはmeetの過去、過去分詞になっていますね)。一般的な英語の勉強とは少し違うようなお話かもしれません。
こんなことばかり気になっているので、学校で教わるような英語学習はなかなか進みません。
一応、学ばないこともないですが、言語学のひとつとしてたまに味わう程度、という感じになっています。
日本で暮らすにあたって、英語は「必要不可欠なもの」ではないので、できるに越したことはないですが「できるからといってそれが何ですか?」というようなことは常に思っています。時間や労力、費用等々、その分を別のことの習得に回したほうが良い場合も多々ありますからね。
「電車の中で英書を読んでいる人」にはモデルがいる
ついでなので触れておきますが、たまに投稿に登場する「電車の中で英書を読んでいる人」は、一応実在する人物としてモデルがいます。大学時代に一緒だった人です。
その人は、常にモテたがっており「ランチは1500円以上のものしか取らない」とか、着ているコートを「これ、17万」などと自己申告しているような人でした。しかし、そうした自己申告が災いしてか、全くモテませんでした。
その人が、常日頃していた行動、それが「電車の中で英書を読む」という行動でした。
女子に話しかけるということはできる人だったのですが、大勢での食事の誘いは相手からの承諾を得ることができても、「二人ではちょっと」といつもかわされているような人でした。
おそらくその人は、女子から「英語教えて下さい」という声がかからないか、という意図で「電車の中で英書を読む」という行動を取っていたと考えられます(問い質してもいくらでも言い逃れできるので、特にツッコミもしませんでした)。
まあこの人に限らず、「電車の中で英書を読んでいる人」等々、この手の表現においてはだいたい実在する人物としてのモデルがいます。
精神を叩き潰す方が優しさである場合
記念すべき第2000回投稿記念が「電車の中で英書を読んでいる人」で終わるというのも何なので、乱文的にもう少し続けていきましょう。
優しさや慈愛というと「優しくなでなでして受け容れる」というような印象がありますが、精神を叩き潰す方が優しさである場合もあるというような点について触れていきましょう。
本人も「このままではダメだ」と密かに思っているにも関わらず、その部分について精神を叩き潰すということを避けるというのは優しさではありません。
優しくなでなでして受け容れて前進するのならばそれでいいですが、そうでないのなら、自分が嫌われたくないとか、緊張したくないというような恐怖心、自己保存から、いつもと同じ方法を取っているにすぎません。それは解釈しだいでは単なる逃げということになってしまいます。
ただ、精神を叩き潰すといっても、言語でやり取りするだけが術ではありません。それほど波風を立たせずに、非言語で精神を叩き潰すことも可能です。むしろ相手は気づかないくらいの感じかもしれません。
また、本人が今意識の上で捉えている問題や解決策は、今の思考が生み出した一種の代替表現であり、本質的な部分は他にある場合がよくあります。
と、あまり詳しいことは悪用される場合もあるので伏せておきますが、世間一般の本質的問題と違う部分での憤り表現、そしてその解決法についてでも触れていきましょう。
股間が凝っているだけ
過激なフェミニズム運動などにより「男は敵である」と言っているような人についてですが、本質的には股間が凝っているだけというような場合がよくあります。
元々ヒステリーというのは清貧主義によって性が抑圧され、股間がガチガチになっていたことが原因であり、医師が指でほぐすと治ったというような経緯があります。そして医師の腱鞘炎を防ぐために道具が開発されたというような流れになっています。
股間をほぐしつつ、肌のふれあいで女性ホルモンがドバドバ出れば、「男は敵である!」という気持ちも静まっていく、というのが本質的な部分です。ということで、相手がいれば、そうした運動からも去っていくということになります。
残念ながら本質的な問題はそうした部分だけであり、単に「モテのこじらせであった」という結論になってしまったりします。
それと社会的な不平等問題は別物として扱う必要がありますが、何も極端に「男は敵だ!」と意気込まなくてもよいではないですか、と思ってしまいます。
「愛されて、股間がほぐれてから、もう一度考えてみてください」
というような感じになります。
そうなると、思想運動を辞め継続的に愛し愛されるか、その思想運動を続けるかの二択となれば、おそらく前者を選ぶのではないでしょうか。
もしそうであれば、ギムキョに生き、愛されず、性をこじらせていたことが根本原因であった、ということになります。
しかしそんな事を言うと、「バカにしている」と返されたりします。
しかしながら、そうした可能性を考えて実質的な解決策を模索していくほうが賢明であると思います。
逆に男性側も、相手に制限されて溜まりすぎると同じようなことが起きます。奥さんの産後等にありがちです。さらにイクメンなどということになると、男性ホルモンが低下し、集中力もなくなり、仕事もうまくいかなくなります。
そんな中、一切の性を否定されるとヒステリーが起こる可能性すらあります。一般に想像されているより強烈な暴力性が起こる可能性もあります。そしてそのエネルギーが逆向きに働いた時、自己否定の念から廃人のようになる可能性もあります。知人の一人は「ひとりでできるもん」すら否定され、発狂し、離婚に至りました。
それくらい大切な問題ですが、深い部分はギムキョ的にタブー視されています。
「股間のコリ」について清貧的にまた、ギムキョ的に「バカにしている」というのは早急です。
そうなると、かつてヒステリーの治療で、腱鞘炎になってまで奮闘した医師の涙ぐましい努力をバカにすることになります。
「私達の崇高な活動を『股間のコリが原因』だなんて」と言う前に、手の痛みに耐えながら、ヒステリーという苦しみを実質的に解放した人たちがいたことを思い出してください。
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どうぞこれからもご愛読くださいませ。
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