感情と目の色の変化

目の日なので、感情と目の色の変化についてでも触れてみましょう。

以前、父が激昂した時、目の色が変化したことがありました(僕に対して激昂したわけではありませんが)。

普段は黒い瞳の色が白気味の茶色になったという感じです。そしてあまりに激昂していたので、なだめて横になってもらい、目に手を当ててしばらくすると気持ちも落ち着き、同時に瞳も黒に戻りました。

もちろん僕の目で見た感じの瞳の色だったので、物理的にはどうなのかははっきり知りませんが、感情によって明らかに黒から白茶、そしてまた黒へと目の色が変化しました。

まあ体温や血流が変化してということもあるでしょうが、科学的に考えようという人たちはこうした変化を見て、どういったときにはどういった状態になるということを突き止め、それで何か汎用性の高い分析のための法則を見出そうとするでしょう。

目を見ればすぐにわかる

しかしながら、そんなことをしなくても、目を見ればその人がどのような人で、今どのような事を考え、どのような感情にあるかなど、科学的に分析などしなくてもすぐにわかると思いますがいかがでしょうか?

何事も「裏付け」を求めれば求めるほど、アイツの罠にハマってしまうということがよく起こります。何か理論的なこと、とりわけ科学的な根拠が無いといけないといいような思考の罠にハマると、簡単にいくことも簡単にいかなくなったりします。

日常で言えば、目を見れば胡散臭いかどうかなどすぐにわかるものの、肩書などの権威性でそれが隠れてしまい、その人は明らかに胡散臭い人なのに判断を誤るというような事も起こります。

そういうわけで、眼鏡で顔を隠している人は信用度が下がってしまうという感じです。特に人相が変わってしまうような縁の太いメガネの場合はなおさらです。

目の色の変化

ということなので、カラーという意味も含めて目の色の変化を追うことで、相手が今どのような状態にあるかは、科学的に分析などしなくても手に取るようにわかってしまいます。

特に活力などはすぐに分かりそうなものですし、「目が澄んでいれば、全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」といった感じで新約聖書にもそのようなことが書かれていたりもします。

なので目を見ればすぐに人の状態などわかるという感じになります。

色の感じでもわかりますし、澄んでいるか濁っているかというような点や、向いている方向にも表れたりします。それをある程度科学的に分析した人たちもいますが、そうした理論を元に目の前を見ずに解釈を言語で追っていると、実際の目から得られる情報が薄くなってしまうこともあります。

ということなので、勉強したい人はしてもいいですが、実際の場面ではあまり気にせずにいたほうが良いのではないでしょうか。

邪念無くしっかりと捉えられたなら、下手な心理学者や胡散臭い占い師より的確にその人のことがわかるはずです。

Category:miscellaneous notes 雑記

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