人間と国民は何によって光沢[ツヤ]が出るか
われわれがそれを行う前に、誤解されることを見抜いたり邪推したりするために、どんなに多くの純粋に個人的な行為が中止されることであろう! 曙光 529 前半 まれに、自分で「交渉上手だ」と思っていながらも、結局損をしている人がいます。 確かに「厚かましいお願い」でも、プラス10%くらいのオマケなら、ゴリ押しで何とかなります。 でも短期的には得をしても長期的に見ると損をしている人が案外多いのです。 「厚かましいお願い」やゴリ押しで、その場は得しているように見えますが、結局大きなものを失うという感じになっていきます。 とい
考えうる将来から
すごく単純なことなのですが、「夢と責任」などで、安易に夢を聞くこと自体が夢を潰している可能性があるということについて触れたことがあります。 幼い時、若いときの少ない情報量でカテゴライズされた中から一つを選ばせるということは、視野を狭め、その他の可能性を排除することになりかねないからです。 そんな時期に「将来の夢は何?」と聞くことは、様々な分野、可能性への興味関心を奪ってしまう可能性があります。 さて、僕が小学校低学年の頃は、インターネット自体が存在していませんでした。おそらく一応存在はしていましたが、まだまだ軍事利
めったにない節制
他人を判定しようとせず、他人について考えることを拒むのは、しばしば人間性の少なからぬしるしである。 曙光 528 めったにない節制ということで、浪費家についてでも書いていきます。 節制は、浪費の対極にあるものであり、必要な消費に関して惜しむことはありませんが、必要ではない浪費は一切しないという感じです。必要なものすら出し惜しみするというのは吝嗇、つまり「ケチ」であり、節制とはまた異なった概念になります。 節制家の対極にあるもちろん浪費家であり「お金を貸す人借りる人」で触れているような、すぐにお金を借りてしまう人です
隠れた人たち
世の中では表舞台に立たずに黒幕に徹している人たちが結構います。 そうすることで、ふとした時の怒りの矛先が自分に向くこともないからです。 意図的に誰かを担ぎ上げているというわけではなく、そうした人を自由に泳がせて、間接的にサポートする形で表舞台に立たせ、いいように使っているという場合もあります。 あえて表には出てこない隠れた人たちは、世の中を動かしつつ「世間からは隠れているため、怒りの矛先が自分たちには向くことはない」という構造をうまく利用しています。 黒幕に徹する理由 企業などの組織でやたらと階層・階級などもが多い
教育
教育とは生殖の継続である。またしばしば、一種のあとになってからの生殖の体裁つくろいである。 曙光 397 以前どこかで書いたと思うのですが、子孫を残そうとする生殖行動自体がDNAレベルで自分の情報を残そうとするということの表れなのであれば、書籍などはもちろん「自分の名前のついた橋」なんかを作ろうとすることも、後世に情報を残すという意味で生殖行動と変わらないという感じです。 ということで教育も生殖行動と変わりありません。もちろんブログの投稿配信も一種の生殖行動です。 何某か情報を後世に残そうという感じの部分があります
象徴であることを望まない
大物であれ、という不断の強制によって、彼らは結局事実上儀式張った零に等しい者になる。そしてこれが、象徴であることに自分の義務を見出すあらゆる人たちの常である。 曙光 526 後半 今は亡き大物芸人が「いつまでこのキャラ続けなあかんのやろ」と嘆いていたというのは知る人は知る話です。 世の中ではキャラ付いていたほうが、覚えられやすく得をすると思われていますが、そうした場合世間の短期的な暇つぶしの踏み台とされ、消費されてすぐに終わっていきます。 すぐに小学生やB層にマネをされるようなわかりやすいキャラ付けがなされると、そ
狩猟
あの人は快適な真理を捕らえようとして狩猟をする。この人は― 不快な真理を。しかし前者もやはり獲物よりも狩猟の方が好きなのである。 曙光 396 狩猟ということで「狩猟免許」の案内を思い出しました。狩猟の発想から、食物連鎖の域を越え、特定の動物を経済動物と呼んだりすることで、己の良心を説得しながら、己の快楽を追求しています。 そう言えば先日銭湯に行った時にテレビがついていて少し見ていたのですが、福島かどこかで猪が街中をウロウロしているという特集でした。 事あるごとに、「猪が悪い」と結論づけようとしますが、別に猪が悪い
賞賛の効果
ある人たちは、大きな賞賛によってはにかみ、他の人たちは、あつかましくなる。 曙光 525 誉めることは素晴らしいと語られていることがありますが、僕は誉められて喜んでいる人を見ると、冷めた目で見てしまう癖があります。 本気で反応しているのではないという場合ではそんなこともないですが、誉められて喜んでいる人を見ると、「かわいそうだなぁ」と憐れみの気持ちで見てしまいます。 結局は他人からの評価で生きているということですから。 賞賛を真に受けると相手の力、影響力を認めることになる こうした「賞賛」にしろ「何かしらの評価」に
孤独な人たちの嫉妬
これはおそらく孤独を愛する文化系特有なのですが、嫉妬でも羨望でもない特殊な感情があります。 嫉妬は、「自分もそのように評価されるべきなのに、まだ評価されていない」という時に起こり、羨望は同一のフィールドにありながらも「すごいなぁ。でもこれは自分では届かないや」というような感情です。 ただ、「こんなものを作れてすごいなぁ」「ここまでこんな表現をしてしまうなんて」と何となく悔しくなるような、でも、別物だから悔しいとはまた違う、そんな変な感情があります。 文化系の特徴はランキングが通用しないことです。 売れればすごいとい
背後の問題
ある人間がいくら明らかにして見せても、人は次のように問うことができる。それは何を隠しているのだろう!それはどこから眼差しを逸らさせるのだろう?それはどんな偏見を刺戟するのだろう?そしてそれからさらに。この偽装の精巧さはどこまで及ぶのか?そしてその際どこで彼は失敗するのか? 曙光 523 とにもかくにも、ほとんどの場合、議論の裏には感情が隠れています。 やれ常識だ、理論だというものを持ち出していた場合でも、その奥には主義思想、それも感情的なものを源流としてあれこれ言っているにすぎないことがほとんどです。 まれに、きち
耳をもたない賢明さ
われわれについて語られたり、賞賛されたり、非難されたり、期待されたり、希望されたりしても、それに耳を傾けないようにしよう。それについて考えることすらしないようにしよう! 曙光 522 後半 耳をもたない賢明さということで、人を意識したり、人の意見に翻弄されることのない賢明さについてでも書いていきましょう。 人を見返してやろうとか、人の期待に応えようとか、そうしたことを繰り返している限り、大したことはできませんし、心の安穏を感じることはできません。 「人から影響を受けてしまう」というのは、ある地点に到達しない限り避け
「もはや私のことを思わない。」
まあ本当に徹底的にとくと考えてもらいたい。眼の前で誰かが水の中に落ちると、たとえ彼がまったく好きでないにもせよ、われわれがそのあとから飛び込むのは、なぜか?同情のためである。そのときわれわれはもう他人のことだけを思っている。― と無思慮がいう。 曙光 133 序 「サービス精神で世話をすると、相手の欲を刺激してしまうことになるのだ」 最近はそんなことをよく感じます。 考えてみれば、不良のお母さんは、その人をよくよく世話していたりします。世話をすればするほど、相手はそれが当然だとも思ってきますし、恩を感じるどころか「
例外で虚栄心が強い
あの人にはひとつの高尚な性質があり、それが自分の慰めになっている。彼はその本性の残余を― ほとんどすべてが残余である!― 軽蔑的にちらっと一瞥する。しかし彼はいわば自分の聖殿に行くなら、自分自身から回復する。 曙光 521 前半 いわゆる宗教やスピリチュアリズムは、ルサンチマンの典型例であり、何か別の基準を採用して自らの自尊心を高めようとする構造を持っています。 特にヒエラルキー(階層)を持つような構造の場合それが顕著です。そう考えるとまさにヒエラルキーの象徴であるテクノクラシーの世界(官僚制ね)、も自分の位置によ
永遠の葬式
永遠の葬式ということで、葬式の話でもします。 つい昨年の今頃、おばあちゃんが亡くなりました。これで全てのおじいちゃんおばあちゃんが亡くなったという感じです。 ということで、このシーズンになるとおばあちゃんのことを思い出します。 実家建て替えの間、少し離れたところに住んでいたのですが、その頃毎朝おばあちゃんの自転車の後ろに乗って小学校前まで送ってもらっていたことをよく思い出します。 そんなおばあちゃんと最後に観たテレビ番組がブラタモリの「会津磐梯山」の回でした(病室にて)。ということで、なぜか五色沼に行きたくなります
あらゆる精神は結局肉体的にあきらかになる
ある程度の年齢になると、「自分の顔に責任を持て」なんてなことが言われることがあります。 まあ確かに普段どんな表情をしているかによって、顔の形なんかは変わりますから、それも確かにそう言えることでしょう。 目元や口なんかは顕著に出ますね。そしてあとは脂ぎり方です。 Z会は概して「なぜかいつでも脂ぎっている」という特徴があります。体型は関係ありません。概ね頭や顔が光り輝いています。 さて、光り輝くという点について、肌艶を良くしようと、肌そのものにベタベタ塗る人がいますが、こうした点については、そんなことをするよりも腹を鍛
欺かれる
諸君が行為しようと思うや否や、諸君は懐疑への扉を閉ざさなければならない、― と、行為する者がいった。― しかし君は、このようにして欺かれた者になることを懸念しないのか?― と、瞑想的な者が答えた。 曙光 519 欺かれる(あざむかれる)ということで、「選択肢から選ぶ」ということをもって欺かれてしまうという面についてでも書いていきましょう。この「欺かれる」の「欺」は、もちろん欺くことであり、詐欺の欺です。 だいたい思考が働いている時は行動がストップします。 道が二手に分かれていて、どちらにしようかと検討している時は、
諦め
諦めとは何か?それは病人の最も気楽な状態のことである。彼はそれを見つけようとして長いこと苦悩して輾転反側し、そのために疲れた― そしてそれをはじめて本当に見つけたのである! 曙光 518 輾転反側(てんてんはんそく)=悩んでいたり、心配事があって、何回も寝返りをうつという感じです。 さて、「諦め」です。 人生は諦めが肝心です。この諦めとは絶望という要素を含んだ諦めというよりも、執着を手放すという意味での諦めです。 執着はそれ自体が苦しみですし、現在「不足している」とか「余計な状態が続いている」という意味で、欲や怒り
誘惑して愛させる
われわれは、自分自身を憎むものを憚らなければならない。なぜならわれわれは、彼の恨みと復讐との犠牲になるであろうからである。それ故にわれわれは、彼を誘惑して自分自身を愛させるように気をつけよう! 曙光 517 誘惑ということで、中学三年生の時にカラオケに行ったときのことを思い出します。同級生女子の前でGLAYの誘惑を歌い「キー下げる?」と言われたことを思い出します。 今では何とかギリギリ原曲キーでも大丈夫です。 広瀬香美氏のおかげです。 (動画が削除されたようです) さて、「誘惑して愛させる」です。 カラオケに行った
実務家
諸君の実務― それは諸君の最大の偏見である。それは、諸君の現場や、社会や、傾向に、諸君を結びつける。 曙光 186 前半 人にもよりますが、中高生の時は、つまらなさそうな大人を見て、そして、大学に進んだりすると、理論と実務との乖離に頭を悩ませる事があります。 だいたい学校で学んだことや資格取得の際に学んだことだけでは実務レベルで全然通用しないという感じになっていますし、学んだようなことと実務上の取り扱いとがあまりにかけ離れていると頭が混乱し、時に怒りが生じることもあります。 例えば、法律を勉強して理屈を学ぶという感
道徳におけるキリスト教的なものの終わり
「憫みによるものでなければ、人は善ではない。したがって、すべてのわれわれの感情の中には、何らかの憫みがなければならない」― 現在道徳はこう思われる!そしてこれはどこに由来するのか?― 同情的な、公平で、公益的で、社会的な行為をする人間が、現在道徳的な人間として感じられていること― これはひょっとするとキリスト教がヨーロッパにもたらした最も一般的な影響であり、心境の変化であろう。 曙光 132 序盤 憫み=「あわれみ」だとは思いますが、またまた難しいのを使いましたね。 さて、「道徳におけるキリスト教的なものの終わり」
自分の内的な力を身近な人たちの中に放棄しない!
すなわち自我[エゴ]を避け、憎み、そして他人の中で生き、他人のために生きるということを― これまでわれわれは、確信を抱いて、また同じように軽率に、「非利己的」したがって「よい」と呼んできた! 曙光 516 文末 「自分の内的な力を身近な人たちの中に放棄しない!」ということをニーチェが書いています。 一応、彼の言う「エゴ(ego)」は自己中心的というような意味になるでしょうか。僕の言う「アイツ」とは若干ニュアンスが違うような気もしますが、詳しくはニーチェに聞いてください。 「和を以って貴しとなす」 なんてな言葉もあり
観想
ある思想家にあっては、彼固有の観想的な状態はいつも恐怖の状態に続き、他の思想家にあっては、いつも熱望の状態に続く。 曙光 395 前半 観想、これは今の状態を捉えようとするようなことですが、感情を直視することでその感情の力(?)が弱まってくるということをお知らせしておきます。 恐怖を感じても、恐怖に対抗すること無く恐怖を感じてください。恐怖心の源泉である、思考上の理屈に対して自己説得するような論争自体を止めて、恐怖を感じてしまう方が恐怖が無くなるというパラドクスがあります。 感情が起こり、それを閉じ込めようとすると
美の増大
なぜ美は文明とともに増大するのか? 曙光 515 序 感性やセンスなんて言われるものは、本来、今ある具体的な何かの出来などではなく、それよりももっと高いレベルで、抽象的な領域で形を作れるかどうか、というようなことで、素人レベルの「センス」などまったくあてになりません。 なんだか最近やたらと「パクリ曲」の記事にアクセスが多いようですが、まあ曲のパクリ云々はさておいて、「具体的な何か」が「その時代にピッタリとはまっただけ」で脚光を浴びてしまった人たちは、若干の哀れさがあります。 二度売れる必要がある たまに芸事の世界は
強い人たちに
諸君、強くて高慢な精神の持ち主たちよ、たったひとつだけ諸君にお願いがある。われわれ他人に新しい重荷を課さずに、われわれの重荷の幾分かを諸君で引き受けてくれ。いうまでもなく諸君は強い人たちなのだから! 曙光 514 前半 わざわいだ!偽善の律法学者パリサイ人よ! ということでしょうか。 「パリサイ人や取税人の類」ということで、案外取られがちな税金などについて書いていきます。 「働いた分の半分以上くらいは持って行かれてるよ♥」 え? となる方も多いと思いますが、一応今の日本の税制や間接的に国に持って行かれている分をトー
制限と美
君は美しい教養を備えた人間を探すのか?しかしそれなら君はちょうど美しい地方を探すときのように、やはり制限された展望と光景を甘受しなければならない。ー たしかに全景的な人間たちもいる。たしかに彼らは全景的な地方のように教訓的であってすばらしい。しかし美しくはない。 曙光 513 あえておカタイことをいうと、美しいとは、「羊+大」ということで身体の大きい羊のボスが、仲間を守るために天敵に立ち向かっていく様を表しているそうです。 だから美魔女は漢字の熟語のルールで言えばおかしいのです。美と魔は相反するものですからね。 ち