一度、二度、三度正しい!
人間というものは、口では言えないほどしばしば嘘をつく。しかしそのことをあとから考えない。そんなことがあるとは一般に信じない。 曙光 302 現在最多PVでお馴染みの「すぐにお金を借りる人」は、何かでお金が入用だとしても、その焦り、その問題がお金を借りることによって解決した場合は、お金を借りたことを忘れます。お金を借りてしまう人の特徴は
「性格が強い。」
「私は、一度言ったことはする。」― この考え方は性格の強さと見なされている。どんなに多くの行為が、最も理性的な行為として選ばれたという理由からではなく、心に浮かんだときに何らかの仕方でわれわれの名誉心と虚栄心とを刺戟したので、われわれはそれらに固執して盲目的にやりとげるのだ、という理由からなされることであろう!(中略) できるかぎり理
お世辞屋に寛大
飽くことを知らない野心家たちの最高の才智は、お世辞屋たちの姿を見ると自分たちの心に浮かぶ人間軽蔑を気付かれないようにし、お世辞屋たちに対してもやはり寛大な姿を見せることである― 全く寛大でいることが出来る神のように。 曙光 300 「お世辞屋の風土 曙光 158」、「犬にお世辞 曙光 258」と、お世辞屋、お世辞というのもよく出てきま
英雄主義の見かけ
敵の真中に身を投じることは、卑怯のしるしかもしれない。 曙光 299 英雄崇拝とその狂信者において、何かを崇拝し、敵の中に飛び込む、死を決して飛び込む様、つまり「殉教」に向かう方向性は、一種の自己陶酔であり、自惚れであり、自慰行為であるのに、その狂信者の間においては「カッコいいこと」とされるため、卑怯のしるしかもしれませんね。 最近か
英雄崇拝とその狂信者
彼は、自分とその同類が虐待されるのを我慢し、悲惨の全体を、新しい種類の自己欺瞞とお上品な嘘によって、神のさらに大きな栄光のためにさえなるように解釈するのである。彼は自己に敵対し、虐待される者として、その際殉教のようなものを感じる。― こうして彼はその自惚れの絶頂に至る。― この種の人間は、たとえばナポレオンの回りにいた。否、おそらくナ
駄目になる
同じ考え方の人間を、違った考え方の人間よりも高く尊敬せよ、と指導するなら、青年は一番確実に駄目になる。 曙光 297 知識と知恵は違うとよく言われますが、たいてい語られている知恵は知識の部類の中に入るでしょう。たまに「難しい漢字を使う方がいい」と思って「智慧」を使う人がいますが、狭義の智慧はインスピレーションなどではありません。むしろ
決闘
ぜひとも必要な時に決闘することが出来るのは利益であると思う。なぜなら私のまわりにはいつでも勇敢な仲間がいるからだ、とだれかが言った。決闘というものは、最後に残された全く栄誉ある自殺への道である。悲しいことには廻り道である。しかも全く確実なものですらない。 曙光 296 実際の肉弾戦でなくても同じことです。決闘は栄誉ある自殺の道、とニー
奉仕の如才なさ
奉仕という偉大な技術の中で、御(ぎょ)しがたい野心家に奉仕することは、もっとも如才ない任務のひとつである。なるほど彼は全体で一番ひどい利己主義者ではあるが、断じてそうは思われたくない(これこそ彼の野心の一部である)。 曙光 295 前半 野心家は、その野心のためならどんな時でもどんなことでも利用しようとします。そんな野心家を支持して同
聖者
女性からのがれ、肉体を呵責しなければならぬ人々こそ、最も感覚的な人々である。 曙光 294 賢者どころか聖者にすらなってしまうくらいでちょうどよいはずです。世の中にはたくさんの自称聖者・自称聖人がいますが、周りの人からの評価ではなく、己自身が聖者たるかどうかが問題です。それは心の安穏によって示されます。 さて、中学生の時に将来の夢を書
感謝する
一グラン感謝の心と感恩が多すぎる。― するとわれわれは悪徳で苦しむようにそれで苦しむ。われわれは自分の自主性と誠実ともどもに、良心の疚しさの手中に陥る。 曙光 293 (※一グラーン(Gran)は、0.06グラム。薬量の単位<注釈より>) 過去記事を見ても、「感謝しなさい! 曙光 5」「感謝を拒絶する 曙光 235」と、またまた同じよ
一種の誤解
誤解というものは厄介ですが、いつでもどこでも付きまとってくるものです。 「スプリンクラー」と「スクリンプラー」、どちらが正しいかはっきりわかったのは20代後半のことです。コントなどで、「道場六三郎氏」役を「六場道三郎」という名でやられてしまっては頭の中は混乱の一途を辿ります。 洞爺湖につられて「トーベ・ヤンソン」か「トーヤ・ベンソン」
不遜
不遜とは見せかけで偽りの誇りである。しかし誇りにまさしく特有な点は、それが遊び事も、偽装も、偽善もできないし、願いもないということである。― その限り不遜とは、偽善の才能のない偽善であり、非常に困難なものであり、大ていは失敗するものである。 曙光 291 前半 不遜(ふそん)、つまり思いあがりであり、へりくだる気持ちのないこと、これを
浪費
興奮しやすく突飛な性格の人々にあっては、最初の言葉や行為はほとんどいつも彼ら本来の性格を特徴つけるものではない(それらは環境によって示唆されたのであり、いわば環境の精神の模倣である)。しかしそれらはたしかに語られ、なされたのであるから、その後に続く性格に基づいた本来の言葉や行為は、しばしば調停や、回復や、再忘却などに費やされざるを得な
美徳に反対のことを言うことが禁じられる場合
臆病者の間では、勇敢さに逆らうことを言うのは低劣に響き、軽蔑を引き起こす。そして無分別な人間は、同情に反対のことが言われると憤激を示す。 曙光 289 先月、「いろんなことに挑戦していきたい!」「どうしてでしょうか?」という問答について少し触れました。「挑戦したいからです」への挑戦状ですね。 「臆病者の間では、勇敢さに逆らうことを言う
上品な人々の悲劇
心からの親密さをうまく示すことの出来ない上品な人々は、その上品な性格を、慎しみ深さや、厳格さや、ある種の親密さの軽蔑などによって推測させようと努める。彼らの強い信頼感は姿を見せることに恥じらいを抱いているかのようである。 曙光 288 よくビジネスマナーなどの研修で言葉遣いについて研修をすることがありますが、相手尊重した版、こちらが遜
二人の友人
友人同士がいた。しかし彼らは友人ではなくなり、どちらの側からも同時にその親交を解いた。一方は、自分が誤解されすぎたと思ったからであり、他方は自分が知られすぎたと思ったからである。―しかし両方共その際間違っていた!― 彼らのうちどちらも、自分自身を十分には知っていなかったからである。 曙光 287 ニーチェは時折、古典落語のような事を言
家畜、愛玩動物、およびその同族
最も兇暴な敵として、はじめから植物や動物の間を荒らし廻り、最後には、衰弱し不具になったその犠牲のために、さらに思いやりさえ要求するような生物の側からの、植物や動物に対する感傷ほど、嫌悪するべきものがあろうか!この種の「自然」に面したとき、人間―もし彼が考える人間であるとすれば―にとっては何よりも真面目がふさわしい。 曙光 286 「家
自我はどこでおしまいか?
大ていの人々は、自分たちが知っている事柄を引き立てるものである。まるで、知っていればそれがすでに自分の所有物になるかのようである。自我感情の所有欲には切りがない。 曙光 285 前半 自我は関連性と言うもので成り立っていますから、というような話を先日、「自我は一切を持とうとする」というところで触れたどころか何度も何度も言っているような
新しいものを古いと申し立てる
多くの人々は、新しい出来事の話を聞くと興奮するように見える。彼らは、新しい出来事がそれを先に知った人に与える優越を感じるのである。 曙光 284 新しいギャグほど寒気を催すものはありません。歌モノやリズムネタ、一発芸など、小学生が真似をするようなものは絶望的なはずですが、大の大人になってもそのようなことを面白いことだと思っている人がい
家庭の平和と魂の平和
われわれの普通の気分は、われわれが自分の環境を維持することのできる気分に依存している。 曙光 283 自分の環境を変化させる事こそ、「ひとまず今のままでも大丈夫なのに新しく危険なことをする必要はない」という抵抗感を一番感じる時です。家庭の平和と魂の平和という言葉のごとく、気分としての平和な状態を強く望んでいます。 確かに新しく危険なこ
美しさのもつ危険
この女性は美しくて賢明である。ああ、彼女が美しくなかったら、どんなにはるかに賢明になったことだろう。 曙光 282 本であっても人の話であっても、その情報がどんな情報であれ、情報というものならば、内容とそれ以外の属性は切り離さなければなりません。 その人の経歴や肩書などの属性は、その情報を解釈するにあたっての単語のもつ意味、つまり定義
自我は一切を持とうとする
人間は一般に、所有するためにのみ行為するようにみえる。少なくとも、一切の過去の行為をあたかもわれわれがそれによって何かを所有しているかのように見なす言語は、この考えを暗示している(「私は語った、戦った、勝った」ということは、私は今、私の言葉、戦い、勝利を所有している、ということである)。これとともに人間は何と貪欲に見えることだろう!過
子供らしい
子供のように生きる― したがって自分のパンのために戦わず、自分の行為に決定的な意義が属していると信じない― 者は、いつまでも子供らしい。 曙光 280 温泉やスーパ銭湯などに浸かっていると、他の客の中に騒がしい子どもがたまにいますが、動きまわるだけでなく「奇声を発する」という場合があります。それが集団となると狂騒と表現するのがふさわし
われわれが芸術家になる点
だれでも或る人を自分の偶像にすると、その人を理想に高めることによって自分自身に対する弁明を行おうとする。彼は疚しくない良心を持とうとするため、それによって芸術家になる。彼が苦しむとしても、無知に苦しむのではなく、無知であるかのような自己欺瞞に苦しむのである。曙光 279 前半 アイドルに陶酔している人をよく観察してください。 さて、「
親切な記憶
高位の人は、親切な記憶を仕入れるのがよい。すなわち、ひとりひとりについて、一切の考えうるよい点を認め、その背後は棒引きにすることである。それによって彼らを快く依存させることになる。人間は、自分自身に対しても同じような取り扱いができる。 曙光 278 前半 「一切の考えうるよい点を認め、その背後は棒引きにする」 この手法はいたるところで
暖かい徳と冷たい徳
冷静な大胆さ、毅然とした態度としての勇気と、熱烈な、半ば盲目的な勇気― 双方がひとつの名前で呼ばれている!しかし、冷たい徳は暖かい徳とどんなに異なっているだろう! 曙光 277 前半 おそらく昔から、誰よりも冷徹だと自負しています。今では怒りもしませんが、切り捨てという意味では、切り替えが早いと思います。特にビジネスシーンではこの要
何としばしば!何と思いがけない!
世の中には「思いがけないこと」がたくさん起こります。 今年に入って同窓会がありました。そこで、当時あまり同級生には視聴者のいなかった「タートルズ」を共に観ていた同じ町内の同級生に成人式以来に会いました。彼は途中で他府県の学校に行ったので、それからほとんど知りませんでしたが、何と今は近くに住んで家業を継いでいるというのです。 それも最近
変装した人
目下彼は品行方正になっているが、ただ他人にそれで苦痛を与えるにすぎない。そんなに何度も彼に目を留めるな! 曙光 275 「変装した人」ということで、最近ではあまり見かけませんが、十年以上前にはよく「女装したおじさん」なども街を歩いていました。梅田にも、ほどよく禿げつつ、ピンクのミニスカートという出で立ちのNさんがよく出没していました。
人間の権利と特権
われわれ人間は、うまく出来ないときには、出来そこないの文章を抹殺するように自分自身を抹殺できるただひとつの生物である。― われわれがこうするのは、人間の名誉のためであろうと、人類に対する同情からであろうと、われわれ自身に対する反感からであろうと。 曙光 274 何故か曙光のこの箇所を見た時に、一番最初に浮かんだのが戸田誠二氏でした。イ
賞讃
賞讃や讃辞という言葉も頻繁に出てくるようになりました。曙光はどうしてもタイトルの似通ったものが多いですね。以前も「改」シリーズを作ったくらいなので構わないのですが、すぐに出てくるところが難題です。まあそんなに頭をひねる必要のあることではありません。 世の中では自己都合のためにということなのか「賞讃」によって他人をより良く働かせようとか