偶然の人間
あらゆる発明の本質的な点を遂行するのは偶然である。しかし大ていの人間はこの偶然には出会わない。 曙光 363 どんなすごいようなことでも、考えて頑張ったからだと思うと、「考えて頑張ったからレベル」の結果しか生まれないでしょう。 いろいろ振り返ってみると、今ある全てが、偶然の要素がたくさん組み合わさって現象化しているはずです。 まあ生まれたことはさておき、誰かと友だちになったことも、今の仕事に就いたことも、偶然の重なりで起こっているはずです。 偶然の重なりによる現象化 例えば、今の仕事を選ぶまでの間に、なぜその仕事に
真なるものの専制政治に反対
紫外線で目がやられていましたが、先日、午前中は滋賀方面へ、帰りは夕方から京都へと帰ってきたため、さらに目が焼けてしまいました。 ついでに言うと、盆の渋滞で移動時間が無駄に長かったということも原因の一つです。 さて、「真なるものの専制政治に反対」です。 専制政治、ではないですが、資本主義と労働と時間の間接拘束についてでも少し触れていきましょう。 わかりにくいので、間接的な拘束についてでも触れていきます。 間接的な拘束 最近の行政はどうも調子に乗り過ぎ感があります。 まあ京都市や京都府なのですが。 どうも行政が力を持つ
よいものすべてに必要な乾燥
どんなに新しいよい作品でも、その時代の湿った空気に触れている限り、― それはさらに、市場や、敵や、最新の意見などの匂いを、明日をも知れぬ無常なすべてを、いたく身につけているからこそ― その最小の価値しか所有しないということを、諸君は気づかれなかったのか?あとになると作品は乾燥し、その「時代性」は死滅する。 曙光 506 中腹 湿度が高い京都では、乾燥を欲することがよくあります。 湿度が高いと息苦しくなる上に、汗が乾かず同じ気温でも暑く感じ、そして実際に体に熱がこもりますからかなり不快です。 最近、道を歩く度に発見す
実際家たち
われわれ思索者たちは、あらゆる事物の美味をまず確認し、必要なときにはそれを決定しなければならない。実際家の人たちは、結局それをわれわれから受け取るのである。彼らのわれわれへの依存は信じられないほど大きい。 曙光 505 前半 「実際家」という言葉をはじめて使うことになりました。 意味がわかるようなわからないような言葉ですね。 さて、久しぶりに連投しています。 やはり下界に長らくいると感覚が鈍りますね。 決算だ何だで、少しフラフラになりましたが、このフラフラは国家に振り回されているということです。 と気づくと一気に楽
憎悪のいろいろ
多くの人々は、疲れて弱気を感じるときはじめて憎悪する。ほかのとき彼らは公正であり、大目に見る。他の人々は、復讐の可能性があると見て取るときはじめて憎悪する。ほかのとき彼らはとりわけ私憤や公憤を一切避け、そんなきっかけがあるときには考えを逸らす。 曙光 362 しばらく下界(という表現にしておきましょう)にいたため、少し感覚が鈍り気味です。ということで軽めに書いていきます。 といっても、最近うちのおばあちゃんが末期がんで余命一週間と言われていたため、見舞いに行った際に、おばあちゃんの体に手をあてると、痛みが取れるほど
孤独を学ぶ
おお、諸君世界政策の大都会に住むあわれなやつよ。諸君若くして才能に恵まれ、名誉心に苦しめられている人々よ。諸君は、あらゆる出来事に― いつも何かしら起こるのだが― 一言するのを義務と心得ている! 曙光 177 前半 また少し久しぶりになってしまいました、曙光です。 引用にも出てきていますが、コメントしたがる奴って何なんでしょうね。 「一言するのを義務と心得ている!」という感じなのか、何の価値もないようなことを平気でコメントしてくるやつです。 「一言するのを義務と心得ている」安易なコメント 特に現代では安易なコメント
祖先に対する批判
新しい世代は、祖先の見解を取り入れたばかりでなく、可能な場合には一層激しく取り扱うことによって、自分を感じはじめた。祖先に対する批判は、当時は悪徳であった。現在では年少の理想主義者たちは、批判ではじめる。 曙光 176 後半 あまりにも現実というものを軽視していることが、迷いの原因です。 普段現実だと思っていることは、様々な情報に起因してフィルターがかかった状態で「現実だと思っている」というのが、本当のところです。 何かを考え始める時、何かの文献を頼りにしろという方法論自体が、少しおかしいといつも思います。 それは
商人文化の根本思想
個人的な競争が古代ギリシア人にとって精髄であり、戦争や、勝利や法がローマ人にとって精髄であったのと同じように、商業が精髄である社会の文化が成立しつつあるのを、われわれは今日幾重にも見る。商人は一切ものを作ることなしに評価し、しかも彼自身の個人的な需要に応じてではなく、消費者の需要に応じて評価することを心得ている。「誰がどれだけこれを消費するのか?」が、彼の問題中の問題である。 曙光 175 前半 商人文化の根本思想ということで、商人とそれ以外の人との根本的な商いに対する考え方の違いや商人文化や商業を嫌う人たちについ
醜くみえる
適度は自分自身を美しいと思っている。過度なものの眼にとって適度が下品に、平凡に、したがって醜いものにみえるということは、適度の責任ではない。 曙光 361 これは、ウェーイがサラリーマンを見て「ダサい」という時の光景を思い浮かべていただければわかりやすいと思います。 ある状況にいる人の目線から見れば単に他の状況にいる人が醜くみえるというだけだったりします。 僕も、昔は着飾ることをしていましたが、今では本当に何の意味もないと思っています。 スーツやネクタイですらお下がりです。消耗の激しいシャツだけは買うことにしていま
功利主義者ではない
「悪いものがたくさん示され記憶に留められるような力は、ただよいだけのものに与えられる無力よりも価値が多い。」― ギリシア人はこう感じた。すなわち、力の感情は彼らによって何かある利益や名声よりも高く評価されていた。 曙光 360 アイツだましの実験終了記念、というわけではないですが、連投です。ブログを書くことによって頭を休ませるということをしています。 普通は何かを書くときには、「頭を使う」というイメージがありますが、確かに頭は使うものの、使ったほうが休まる場合もあるという感じで、まあ一種のリハビリです。 さて、「功
和解させる
一体哲学の課題は、子供が学んだものと大人が認識したものとを和解させることであるだろうか?青年たちは子供と大人との中間にあり、中間の欲望をもっているから、哲学はまさしく青年たちの課題であるだろうか?哲学者たちが現在どんな年齢で哲学の構想を抱く習慣であるかを考えると、― それは、信仰には遅すぎ、知識にはまだ早すぎる年齢年齢なのであるが― ほとんどはそのように思われてならない。 曙光 504 一ヶ月以上ぶりの曙光です。 今回は「和解させる」ということで、和解について書いていきましょう。 僕は厳密な意味では、昔から人と和解
友情
久しぶりの「曙光」です。前回の更新から2ヶ月近く経っていますが、再開です。今回から曙光を持ち帰ることにします。 さて、「友情」です。シンプルなタイトルですね。今回は引用は避けておきましょう。 最近、若い事業家仲間のひとりがマルチネットワークにハマり出しました。その話を、他の人から聞いたのですが、その人は彼に会った時にマルチネットワークに勧誘されたそうです。 それに関する投稿「マルチ商法(MLM)と洗脳」を公開しました。 その話を聞いたとき、以前、友人に宗教勧誘された時の感情が再燃しました。 宗教勧誘により失うもの
二つの異なった状態のために一言
本書「曙光」では情熱に駆られた状態のときについて述べていますが、ここでひとつ、意志決定について少しだけ触れようと思います。 胡散臭いコンサルをはじめ、胡散臭くない人であってもよく言うのが、「経営者に必要な能力は決断力だ」ということです。 まあ間違いではないでしょう。 何かを決めるときは、目の前の選択肢の中から選ぶわけですが、選んだ瞬間、他の選択肢を捨てることになります。時にイイトコどりということもできますが、概ねそんな感じでしょう。 選択肢の中から選ぶ 「車の運転が上手い人は、仕事もできる」とよく言われますが、全て
あることを是認する
われわれが結婚を是認するのは、第一にわれわれは結婚をまだ知らないから、第二に、われわれは結婚に馴れているから、第三に、われわれは婚約しているからである。― すなわちほとんどあらゆる場合に是認する。それにもかかわらず、結婚一般の品質の良否については何もそれで証明していない。 曙光 359 なんだかんだでニーチェは結婚ネタが好きですね。 ご無沙汰しております。bossuです。眼のピクピクも少し落ち着いてきました。 さて、以前結婚相談所の方と、結婚についてお話をしたことがあります。 「結婚=第三者に対する二人の関係性の外
死すべき魂!
認識に関する最も有用な業績は、ことによると魂の不滅への信仰が放棄されたということかもしれない。現在人類は待つことが許されている。現在人類は、かつてそうしなければならなかったように、あわてふためいて、半分しか吟味されていない思想でのどをつまらせる必要はもうない。 曙光 501 前半 そんなに生きたいとも思わず、また生きたくないとも思わない、という状態が本体あるべき姿です。 何故かニヒリズムが再びよく閲覧されているようです。そういえば書いてから一年以上経過しているということを忘れていました。 そういえば、私事ながら気力
理由と、それが理由にならぬこと
君は彼を嫌悪しており、この嫌悪に対する理由を沢山もち出す。― しかし私は君の嫌悪を信用するだけであり、君の理由は信用しない!本能的に生じるものを、君や私に対して三段論法のように提出することは、君自身への胡麻擂りというものである。 曙光 358 感情はストレートに「真」ですが、その裏付けとなる思考には穴がある可能性が常に内在しています。 嫌いという感情は、論証の必要なくまさに正しいのですが、「なぜ嫌いか?」という理由付けは正しさを帯びることがありません。 世間で、とりわけ飲み屋で繰り広げられているこういった議論は、ほ
「道。」
いわゆる「近道」は、いつも人類を大きな危険に導いた。そのような近道が見つかった、という福音に接すると、人類はいつも自分の道を離れ― そして道を失う。 曙光 55 毎度のことながら「道」という言葉を見るとどうも松下幸之助氏を思い出してしまいそうになりますが、それはさておきましょう。 ただひとつの道 昔からよく「近道を選ぶとえらい目になる」というようなことが色んな所で囁かれます。 しかしながら、それは横着をするなという戒めのようなもので、効率のよいやり方を模索することは、非常に険しくリスクも伴いつつも、人を成長させるも
商業社会の道徳的流行
現在の道徳的流行の原則― 「道徳的な行為とは、他人に対する同情心の行為である」― の背後に、恐怖心という社会的な衝動が支配するのを、私は見てとる。 曙光 174 序 某産業団体の「裏役員(決して怪しい存在ではありません)」をしているため、先日、自己啓発に洗脳された人から、当該師匠をセミナー講師として、起用して欲しいという説得をされました。 僕が直接されたわけではないのですが、団体構成員を経由して、団体の方に依頼が来ました。 洗脳系の自己啓発であり、普段はぼったくり自己啓発セミナーを開き、あげくセミナー受講生を弟子と
自然における目的
偏見のない探求者として、最下級の生物の眼および眼の形態の歴史を追い、目が徐々に発達してゆくその全体を証明する者は、見るということは、眼の発生のときの意図であったのではなく、むしろ偶然が器官をまとめたとき姿を現わした、という大きな結論に到達せざるを得ない。たったひとつのそのような例ではあるが、われわれは「目的」という迷いの夢から覚めるのである。 曙光 122 ご無沙汰しております。なかなか更新のタイミングがなく、やや停滞気味ですが、元気にしています。 「目的」という迷いの夢というのが興味深い箇所ですね。 さて、引用は
性に合わない
更新がやや滞っていますが、もちろん放置や閉鎖するつもりなど毛頭ありません。 さて、「性に合わない」というお題は、大抵のことについて書けそうですが、少し絞りましょう。 人の性格を分類するような占いやデータ等、世の中にはたくさんの分類方法がありますが、中学校のときに感じた違和感と、比較的最近出た手塚治虫氏の「ブッダ」の劇場版についてでも書いていきましょう。 中学校の時に感じた違和感 世の中には様々なタイプの人がいますが、それを分類してその人に合わせた売り方をする、ということはよくビジネス界で行われていることです。 中学
悪者
「孤独な者だけが悪い」と、ディドロが叫んだ。そこで直ちにルソーは致命傷を受けた感じがした。それ故に彼はディドロが正しいことを承認した。(中略)いたるところにお芝居だけを見てとる者の眼にとっては、やはり最も見事に悪いのである。 曙光 499 抜粋 世の中にはそこそこの悪者がいます。 しかしながら非難を受けて、少し肩身の狭い思いをしていることもあるので、悪者ながらに少し常に罰を与えられているような環境にいるということがあります。 それよりもさらにタチの悪い悪者は、社会の中で無害として扱われているか、その取り繕いによって
要求するな!
諸君は彼がわかっていない!そうだ彼は人間と事物とに軽々と、自発的に服従し、双方に対して好意をもつ。彼のただひとつの願いは、妨げられないということである。― しかしただ人間と事物とが要求することのない間だけである。あらゆる要求は、彼の誇りを高くし、遠慮させ、しかも勇敢にする。 曙光 498 昔から欲はあまりなく、怒りが強い気質です。もちろん根本は同じなのですが、傍からは欲に見えても、本人的には怒りであることがよくあります。 例えば「彼女がほしい」と言っても、欲々しい欲ではなく、「彼女がいないことによってソワソワする気
純粋にする眼
「じゅんすいにするめ」と打てば、案の定「純粋にスルメ」と出てきました。 僕はイカが食べれません。スルメはギリギリ食べられるものの、匂い、味、食感共に全てがダメです。原因は小学校のときの給食の「イカの煮付け」です。 なお、ぼっちゃん的な事柄になりますが、料亭で出てくる透き通ったイカは臭みがないのでぎりぎり食べられます。 さて、「純粋にする眼」です。 ニーチェはこの項目で、プラトンやスピノザ、ゲーテなどが出てきた後に「天才という名前が本来的にふさわしい他の人たちは、純粋な、純粋にする眼をもっている」と綴っています。 こ
悪い原理
静寂の中に身をおいていると、どんどん意識も身体も澄んでくるような気がします。 新居にはもちろんテレビなど置くはずもなく、携帯電話も机に放置。そんな風に少し世間(というかデジタルデバイス)と離れるだけで、意識の散らばりもどんどん集中へと向かいます。 インターネット環境が整わないので、以前と比べてはまだまだ更新頻度は少ないですが、もうしばらくすると頻度は上がってくるでしょう。 さて、「悪い原理」です。 アイツの原理 悪い原理ということで「アイツの原理」について少し触れていきましょう。 根底は生存本能的な恐怖心ですが、い
われわれの師
若い頃われわれは、師と案内者とを現代の中から選び、われわれがまさしく遭遇する範囲の中から選ぶ。現代は、他のいかなる人たちよりもわれわれに適した師を有するに違いない。あまり探さないでも師は見つかるに違いない、という無思慮な確信をわれわれは抱いている。 曙光 495 前半 「師と弟子たち」などで触れていますが、師というものがいた試しがありません。それぞれの分野における「師匠的な人」はいましたが、たいてい偉ぶっている人たちは師に値するほどの人ではなく、一度会っただけで、その人を超えてしまうことがほとんどでした。 言葉に詰