角家の兎
2007年01月31日03:31
よく通る道端の民家で見かけた。
初見で何が転がって居るのかと思い、近寄ってみる。
「なんだ、縫い包みか」
と、その場は去ったのだが、翌日隅っこへ移動している。
「子供がなにやら玄関で遊んでいるのだろう」
と、その場を去る。
翌日、凝視してみる。
耳が動いた。
しかし、頑なに前を見つめている。
…
可愛い…
…
近寄ってみる。
…
耳だけが動いた。
さらに凝視する。
…
口をもぐもぐさせている。
…
やられた…
こういうのに弱い性質である。
心を奪われた…
翌日、少し斜めに構え、私が近寄ると耳をこちらに向け、狼狽する様子で恐る恐る目を向けてきた。
其れからと言うもの、常に後ろ向きだったのが毎日少しずつ立ち位置が変わっていき、先日終ぞ前を向いていた。
…
嬉しい…
何故だかは説明仕様が無いが…
兎にも角にも嬉しい。
Kさんちのうさちゃん
2008年10月30日22:01
Kさんが玄関先にいらっしゃった。
聞くべきか、聞かぬべきか。
何が自分に恐怖を与えているのだろう。
唐突では不自然だからか?
いや、事実を目の当たりになどしたくないのだ。
裏返ったままのお皿。
もう一年も顔を見ていない。
意を決した。
「すいません。ここにうさちゃんがいましたよね?」
「そうなんやけどね。死んじゃったの。去年の今頃に」
「そうですか。最近見なかったものですから」
だから何時も夢に出てくるのか。
「あら、通るたびに楽しみにしてくださってたのね。あの子も幸せな子ね」
項垂れた。
もう年寄りだったらしい。
おばさんの田舎に埋めてもらったらしい。
しばらく出なかった涙が流れた。
オレ達はいつまでも親友だ。
最初は結構無視されたけど、そのうちに「うさちゃん」と呼ぶと顔を乗り出してまふまふしてくれた。
人間同士でなくても心と心は通じ合うんだよ。
オレ達はいつまでも一緒だぜ。
夢の中でいつも会えるから寂しくなんかないんだ。
養子
2009年03月27日23:11
突然、我が家に養子がやつてきた。
世間では彼のことを兎といふ。
先日、某所にて通りがゝりに當の彼とおばさんが表で日に當たつてゐる所に出くはし、「すいません、ちよつといゝですか」と彼を觸りにいつてみた。背が猫より猫背である。何より鼻が小刻みに上下してゐる。これを「まふまふ」と定義しよう。
あまりのまふまふさに、一般にいふ萌えにも似た感情を抱いた次第であつた。「ウサギ好きなの?」と訊ねるおばさんとウサギ論について井戸端會議を開く結果となつた。「この子をもらつてくれない?」といふ臺詞を聞いたときは、眞の事か我が耳を疑つたが、どうやら娘さんから引き取つたは良いものゝ家を空けることが多いといふ。「では是非」といふことで話はトントンと進み、後日養子に迎へることになつた。
自分の幸運さにあらためて驚愕した次第である。
當日におばさんが不在といふことで、息子さんに出迎へられるといふ話になり、息子さんとも對面したが、息子さんも野暮用があるといふ。さて、どうしたものか。七時には歸宅といふことなので、おばさんにあはせてその時間に向かはうとしたが、當日は思つたより早くついてしまひ(氣が急いてゐたのであらう)おぢさんが出迎へてくれた。
「兄ちやん何で歸るんだい?どうやつて連れて歸るんだ?」と申されたが、籠が大きくタクシーくらゐしか連れて歸る手段はない。その旨を傳へると、どうやら話は輕トラックにて自宅まで送つてくれるといふ、なんとも有難い話になつた。かうして出逢つてものゝ十分のおぢさんと當の彼との男二人と一羽のドライブが始まつた。
「俺には學がねえからなぁ」と申すとつつあん。いやいや、こんなにも心遣ひのできる素敵なとつつあんではありませんか。「最初はちつちやくてかはいゝと世話するんだが、大きくなつたら丸投げしやがる」と彼の經歷をご說明いたゞき、世話の仕方をご傳授していたゞいた。
餘つてゐた餌などを一緖に運んで下さつた。
「短い間だつたけどやつぱり少しは情がうつるからなぁ」と鼻筋を撫でゝ「元氣に暮らすんだぞ」と最後のお別れの言葉を口にした。
車が走り出すのを我輩は深々と頭を下げ、見えなくなるまで禮をした。
かうして黑いウサギは我が家の養子として第三の兎生を步みだす事になつた。
實をいふと、Kさんちのうさちやんと同一の種なのか、色の具合も全くといつていゝほど同じである。
我輩が想像して止まない未來の映像を描寫するかの如く養子に來た。
嗚呼我輩はどうしてこんなにもツイてゐるのであらう。
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