ありふれたようなタイトルだが、変な感覚が漂うのだ、連休と言う語に対して。
一週間ほどの休みと言うのはなかなか久しぶりかもしれない。
2連休か、3ヶ月と言う極端なものしかなかったからだ。
と、言っても明日は仕事。
…
弟の口から「ニーチェ」と「サルトル」という単語が出てきたので、明後日からは堀江氏のように、本を読もうかと思う。
この一年、自己主張することを控えてきたが、改めて「金髪にしたい衝動」のような自己主張願望が沸き起こってきているのは、Snail rampのJet walkを聴いて、思わずベースをガリガリ弾いてしまったからかもしれない。
たまには本気で思想などについて語りたいが、資格試験などを連発したおかげか、どうも学問をすることに慣れてしまい、哲学することを忘れてしまった感がある。
あと、仕事柄か、人に合わせることに慣れてしまったのかもしれない。
すっかり笑顔を無くしてしまったが、「赤ん坊の微笑み」を手に入れるためにベースをかき鳴らすしかない、と、ふと思い立ってStompin’ Birdを耳コピした次第である。
そうしているうちに興奮を手に入れるために古い絵を探してみたりする。
そしてCDジャケットを見ると、あの頃憧れだったお姉さんが意外にも…なことに気付く。
旅行にも行こうと思うが、人がいっぱいなのは好きではない。
よって、行かない。
先日、夢から覚めると、この数年、自分が起こしたよくわからない行動の原因が、突然頭をよぎった。
吐き気を催すと同時にすっきりもした。
おそらく誰もが見たくない記憶と言う名の現実なのかもしれない。
人は記憶とその場の感覚によって起こされた感情によって行動を決定している。
また、記憶が甦り、現在に感情が生じるならば、それは現実と何ら変わりない。
そうなると、記憶と言う化け物のエネルギーを侮ってはいけない。
それが表面化しようがしまいが、記憶というものをいかに解釈し、奔出してくる感情の色をどうするかによって、生きる9割が確定する。
と、ニーチェやユングの言いそうなことを考えてみる。
僕の心は傷ついてはいないが、どこかに曇った傷だらけのレンズがあって、そこから描写される世界が今の僕を歪めるのだろう。
本当にくだらない、何の生産性もない喫煙と言う行為にも何かしらの原因がある。
ネットで囁かれる特集のような軽々しい分類ではなく、一時的に胸がグサリグサリこようともそんな非合理的な行動の原因と真正面から対峙してみよう。
薄っすらわかってはいるが、直視したくない記憶と手を取り合って和解できたとき、何にも変えがたい恍惚感が訪れることは間違いないだろう。
夢と言うものは本当にすごい。
(2011年05月02日00:36)
かなりどうでもいいのだが、「薄毛の進行止めたい」の広告が、わが弟に見えなくもない(弟はもっと顔がキレイだが)ので、キーワード共々感傷的にならざるを得ない。
幽遊白書を観だしたら止まらなくなり、全話の半分くらいを鑑賞したしだいである。
いつ観ても面白い。
ちょうど暗黒武術会で飛影が邪王炎殺黒龍波を出したり、戸愚呂弟が100%になるあたりである。
何より肥えた者勝ちのお腹に代表されるおっさん化現象を何とかしなければならない。
―
この時間をとてつもなく無駄にしている感を味わいたかったのだ。
「気分だけでもNEET」
が、昨年からの楽しみだったのだ。
たまにはいいかもしれない。
しかし、そのうち「遊びに行かなければならない」という強迫観念に襲われることは目に見えている。
―
アクセルとブレーキを同時にかけている感じが拭い去れない。
望むと同時に拒否している。
僕の仕事についての感情そのものだ。
全ての答えを無意識に委ねてみた。
頭が回転しないのは栄養不足らしい。
「そろそろ本気を出せよ、引かれてもいいから」
というお告げをもとに、本気を出してみようか。
半端な気遣いは誰にも好かれない。
以上でも以下でもなくジリ貧になるだけさ。
おかしなことに株の世界でもそうだったな。
思いっきりぶち込んだ3日後に倍になってたこともあった。
ちまちました投資の仕方だと20%くらい落ち込んだ所でやむなく損切りしてた気がするな。
はっきり言おう。
俺は金融が嫌いだ。
いや、お金は好きだ。
でも大概の金融系の人間が嫌いだ、おそらく。
冷たいやつ、というか他人に無関心なやつが多いしね。
わけのわかってない高齢者にリスク性商品を売りつけるからね。
でかい看板を背負った詐欺師。
何より金融庁だな諸悪の根源は。
どうしてお金の教育をもっとしないんだろう。
されたら困るんだろう?
と、言いたい。
お金が残らない根本的な原因は、要らないものを買うからだ。
見栄だったり、憂さ晴らしだったり、つまりは自尊心の欠落から起こる。
―
自分がここまでお金に対する執着を持っているのは、お金に無頓着な人間が嫌いだからだ。
そんな自分を解放したい。
だからたくさん勉強した。
でも無意味だった。
しかし、無意味と言うことがわかっただけ、意味はあったのかもしれない。
それにたくさんの知識がおまけでついてきた。
普通の感覚でいくと、お金に関していくら助言しても言うことを聞かない。
理由はわかっている。
大半が自分の可処分所得を制限されることが感覚的に嫌なのだ。
しかし、よく考えて欲しい。
最終的な可処分所得を増やすための「経済」なのだ。
限りある資源をいかに効率よく分配して幸福度を最大にするかがその根本なのだから。
―
悲しみが生み出した努力は虚しい結果しかもたらさない。
僕はある人に勝ちたくてたくさん勉強した。
がむしゃらだった。
おかげで一年足らずで追い越した。
でも、虚しかった。
ただ、ぼんやりとした虚無感と資格証明だけが手元に残った。
「こんな紙切れのために俺は何をしてたんだ」
もうこれ以上自分を誤魔化すのはやめよう。
勝って何になる。
もっと違うもののために頭を使おう。
そんなことをぼんやり考える。
―
教科書をコピーしたような論争にももう飽きた。
自分の肌で感じたストーリーを聞かせて欲しいな。
何故か定義だらけで、一通りの学問をしたものでなければ議論に参加できないような事になってるけど、それは違うような気がする。
そこで知識量を比べたり、勝った負けたの構図になったりで、「それは議論ではない」としか言いようがない。
クイズじゃないんだ。
テストでもない。
考えるということを拒否しているとしか思えない。
それにニュースを話題にしている人に、うちのウサギが如く耳を立ててみると、ただ世間に叩かれた人を叩いているだけだったりする。
東京電力にしろ、元はといえばOBOGが悪い。
そんな企業を選んだ現役にも非はあるのかもしれないが、退職者たちはたくさんの恩恵を受けて、責任を逃れてるんだ。
袋叩きにしてもいいんじゃない?
まあ下のほうの人たちは拒否できなかったのかもしれないけど。
国債発行の構図だってそうだ。
今、国債を発行してる人たちは償還期日には退職してるよ。
ボコボコにしなきゃ。
「退職後まで責任を負うということになれば、恐怖で誰も動けない」という大義名分のもと、次世代にツケをまわすのが常套手段。
ただ、現役世代には拒否する術が無いだけさ。
で、ちゃんとツケを支払うように若いときは給与を少なめにして、中年になったときに高めに設定すれば「若いときに我慢したんだからもったいない」という心理のもと、爆弾をつかむ。
これが経済オンチ日本の構図。
騙されてんの。
これが年功の末路さ。
だからといって普通はどうにもできない。
―
自分の中の攻撃性を見ないでおこうとすると、その矛先は自分に向けられてしまうので、嫌なやつにはとことんまで嫌なやつになりましょう。
孤立。
いいじゃないか。
嫌なやつといるより独りのほうが楽しい。
と、思っていると、いいやつがたくさん集まってくるから不思議だ。
上下とかそんなこと気にせず、尊厳をもって好き嫌いで判断しよう。
―
ニーチェを読むとこうなる。
―
ある本を読んでその人にどのような変化が起こるかはまったくわからない。
数々の注釈が追加されるということは、誰も一冊の本を完璧に理解などできない。
新約聖書なんていい例だろう。
ただ、本は読んだほうがいい。
―
父親がうちのウサギに興味を示し、毎朝おやつをあげているという事実がなんとも微笑ましい。
(2011年05月07日05:01)
連休が終わる
これは悩みではないのかもしれないが、頭がとてつもなく衰退してるような気がする。
それも段階的に。
必死に世間に合わせようとした歪なのかもな。
思ったより本が読めない。
旧字も読めなくなってる。
僕の持っている「偶像の黄昏」(ニーチェ)は旧字なのだ。
はっきり読めなかった。
―
カントの話題なんてしたら引かれるので、封印してたが、それがまずかったのかもしれない。
覚えている必要はないが、せっかくの思考鍛錬が無駄になるのはいただけない。
別に何のために読んだわけではないが、考えることが大好きな自分が、何も考えないようになってしまったようだ。
人に言われたとおり頭に詰め込むだけになってしまった。
リハビリしなくては。
―
ウサギが僕の足の周りをぷぅぷぅ言いながら回り出した。
嬉しい。
愛らしくて30分なでなでしておいた。
―
おそらく僕は、懺悔の気持ちでいっぱいになっている。
数字と天秤にかけてしまったことを。
―
お金に魔力はないが、エネルギーは確実にある。
それをうまく使いこなせない人をたくさん見てきた。
これからも見るだろう。
―
お金を借りに来られる時にくる嫌悪感は何なんだろう?
必要なときに必要な現金があれば、赤字でも理論上破綻しない。
融資をもって救える局面があることは理解しているが、僕は貸さない。
―
この連休、幽遊白書と読書以外は、ほぼ寝るだけだったが、ずっと考え事をしていた。
そして、いろんなことに気付いた。
普段はゆったりした時間がなくて、考えられなかった、というより見ようともしなかったモヤモヤに真正面からぶつかってみた。
遊びに行くのは、考えることを拒否するのと同じだから。
もちろん、考えなくてもいいのかもしれないけど、僕の性格が許さない。
明確な答えはなかったけど、わかった気がする。
この身体の軽さがそれを証明している。
(2011年05月09日02:24)
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