同情は、快楽を含み、また少量で優越を味わわせる感覚として、自殺の解毒剤となる。それはわれわれから洩れ出て、心を満たし、恐怖と無感覚を追い払い、言葉や、嘆息や、行為などをつのらせる。 曙光 136 中腹
もし同情の中に優越感を感じたとしても、相手との比較の中での感情にしかすぎず、そうした相対的な尺度がまた、自分を苦しめる原因になります。また、もし同情の中で相手の憂いなどと同調することになれば、無駄に憂いを感じてしまうことになります。
他人が憐れみを乞うてきたとき、取るべき態度は簡単で、爆笑するに限ります。
憐れみ乞いには爆笑で対応
仮に何かの不幸話を持ってきて、憐れみ乞いをしてきたとするならば、最善の態度としては「爆笑すること」です。
「同情することが相手を幸せにする」という思いを持つよりも、いっそ同情などせずに苦労話、悲しい話を爆笑の対象にしていまえばいいのです。
「悲壮な人々と素朴な人々」の友人から話を聞いたときには、爆笑しました(別に彼は憐れみ乞いをしてきたわけではありませんが)。
仮に「相手の幸福とは何か?」ということを考えた場合、その最善の方向性としては相手が明るく元気になることです。
その方法論として相手に同情し「共感してもらえた」と感じてもらって安心を得てもらおうとするよりも、爆笑しておいたほうが相手にとっても意味付けが変わり、不足にばかりあたっていた焦点が変化するので一石二鳥です。
不足に焦点をあてず充足に焦点をあてる
人が「可哀想だなぁ」なんて言う時は、だいたい他の人との比較の中で可哀想だと思っていることがほとんどです。
お涙頂戴番組での演出もまさにそのもので、「普通はこういうふうな事ができるのにそれができない人」というレッテル貼りからスタートしています。
そして、「家が貧乏だ」という判断にも「だいたいこれくらいが普通だ」という基準があります。で、その比較の中で「かわいそうだ」とかそういう概念が生まれるはずです。
僻み根性を保持したままでは…
そうした人が慰めのようなことをする場合、同じような基準を持ってきて「あれよりはマシだ」という解釈に変更させようとするのが関の山です。ある種僻み根性を保持したまま、解釈変更を行って自尊心を回復させようとする、まさにルサンチマン的です。
問題は僻み根性を保持したまま、判断基準を自分勝手に変えて相手に勝とうとすることです。何かの基準を持って相対的な判断をし、自尊心を高めようとすることは誤謬です。
そうしてしまうと、またアイツの内にとどまることになり、同時に新たなる基準すら作って条件を増やしていくことになります。
また、慰めのつもりで「〇〇だから大丈夫だ」と言うと、その「〇〇」に縛られていくことになります。「かわいいんだから大丈夫だ」と言われれば「かわいい」に執着を増してしまいます。
次には「かわいい」を維持・発展しなければならないという執着を増し、「かわいいか否か」という価値基準を元に世界を解釈してしまうようになります。そしてそれは一種の条件化であり当然に僻みの原因、失うことへの恐怖の原因、優越感による差別意識などのタネになります。
絶対的な充足の方に目を向ける
そんな茶番からは抜け出して、出来事についての感情は爆笑で昇華し、比較の中から起こる不足に焦点をあてず、絶対的な充足の方に目を向けて明るくなるべきです(不足を感じる時)。
憐れみ乞いのようなことをされた、だとしてもあなたには関係ありません。
そしてその人が考えている因果関係も関係ありません。
全く関係ないのです。
同情の中の幸福 曙光 136
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