女性からのがれ、肉体を呵責しなければならぬ人々こそ、最も感覚的な人々である。 曙光 294
賢者どころか聖者にすらなってしまうくらいでちょうどよいはずです。世の中にはたくさんの自称聖者・自称聖人がいますが、周りの人からの評価ではなく、己自身が聖者たるかどうかが問題です。それは心の安穏によって示されます。
さて、中学生の時に将来の夢を書きなさいと言われて、「大阪湾までゴムボートで行く」と書いた事がありますが、「ふざけるな」と言われたので、「ふざけてなどいない」と返しつつも、「では、将来なりたい職業を書きなさい」と言われたので、「賢者」と書きました。「じゃあ学者さんか何かになるのですね」と言われたので、「そういう意味ではない」と返しておきました。
ムラムラで釣ろうとする人たち
様々なインターネットサービスのアカウントを持っていると、詐欺師たちが「男ならば反応するだろう」というような釣りをしてきます。女性からムラムラをちらつかせられれば、「もしかして…」と思って反応するだろうというような釣りです。
色っぽいような格好をした写真をプロフィールにし、「友達が欲しくて」的な雰囲気で、股間をはんなりさせようというような釣りです。
残念ですが、そのような手口が通用する相手ではありません。
たまに「若い女性と話すとやる気が出る」という人がいますが、そんなことをしなくてもいいような境地に立とうではありませんか。
根本的に快楽と幸せは別物であり、安らかさこそが幸せであるというのが本当のところです。
可愛がられるようにしていれば得をするというような思想
さて、僕は小学生の時から「可愛がられるようにしていれば得をする」というような思想を持った人が嫌いです。
既に小学校中学年くらいから思っていました。ですから、体育会系の後輩ポジションも嫌でした。
たまに女性で若いからとか、美しいからといって、何かをおごってもらえるかのような思想を持っている人がいますが、そのような自立心のない神経を疑った方がいい。
僕はこのようなタイプの人を「妹気質」と呼んでいます。
実利もさながら「やってもらうこと」で愛情の確認や自尊心を保っているような人です。そんな人と関わりを持ちたくありません。
相手に甘えられることにご満悦な人
また、「甘えられる」ことにご満悦な人もいます。しかし個人的にはそんなことをされても嫌な気分がするだけです。行動が面倒くさいというだけでなく、そのような神経の人と一緒にいることが不快なのですから。
そこで、そのような「甘えられたら嬉しいだろう」というような釣りをする人がいますが、全て排除しています。ムラムラで釣ろうとする人も同様です。
おごるどころか、飴すらあげません。
肉体を呵責しなければならぬ
さて、「女性からのがれ、肉体を呵責しなければならぬ」
この感覚はなかなか得ることはできませんが、注意深く自己観察を行えば、肉体を呵責することはできるでしょう。おしっこがしたいという衝動がなければ「トイレに困る」ということは起こりません。
同様に○玉に支配されているからこそ不合理な行動をとってしまっているということにだけ気付ければ、ひとまずはそれで十分です。
やりたくてやっているようで、肉体からの衝動によってやらされているだけですから、「面倒くさいなぁ」と思わなければなりません。
やらされていることが面倒くさいと思った暁には、「よし、ひとまず主従関係を逆転しよう」ということを決意してください。それは我慢ではありません。焦らしでもありません。
一連のプロセスを観察し続けてみてください。なるべく連日連夜、貯蔵庫の限界までやり続けることです。その時の感覚と、衝動と気持ちの移り方など、様々な面を具に観察してください。あくまで主従関係を意識しながらです。
途中でおしっこに行くなど、様々な実験をしてみてもいいでしょう。
ただ、「いけないことなのだ、恥ずかしいことなのだ」などと変に納得などしてはいけません。自分で観察して、自分で感じなければいけません。
どこに意識を向けているかで、感覚も変動するということがすぐにわかるでしょう。
するとそのうち、へそを出している女性の写真を見ても「溜まってそうだなぁ」くらいにしか思わなくなります。その上でラフレシアでも見てください。ブルーベリージャムを観察してもいいでしょう。
そのようなくらいにまでなった時、それでも本当に若い女性と話をして元気になどなるのかと、再考してみましょう。
沢山の人にモテることが幸せなことなのか、と考えてみてもいいでしょう。
聖者たるものは欲を持ちながら「我慢」をしているのではなく、それこそが苦しみだと気づくことで達することできる領域です。
聖者 曙光 294
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