自称アーティストの方々は、よく思い違いをしたがります。アーティストの特性を分析し、その分析結果を元に自分を当てはめようとし、他人からはそう勘違いされるように仕向けていきます。
「何かつかみ所のない不思議な存在」
自称アーティスト、自称芸術家の方々は、特にこのような属性を自分に帯びさせようと努力します。
努力している時点ですでに違うのですが、あまりに平凡な考え方を持っているとアーティスティックには見えないので、ひとまず人と違うことをしようと考えます。
脱社会や自然への回帰
そこで向く方向は、脱社会や自然への回帰などです。
脱社会はいいですが、たいていはコンビニ弁当がオーガニック食品(ボタニカルって何?)に変わり、果ては泥の中に裸で飛び込むことが自然への回帰だと考えますが、そんなことをしている動物はほとんどいません。
せっかく合理的に少ないエネルギーで生命維持できるように進化したものを拒否しているだけで、ある意味で自然とは逆行しています。
ふんどしはしている
自然への回帰への表現として、裸でドロの中に飛び込んだりするのですが、それを撮影する時は、社会性を気にしてふんどしをしていたりします。
ドロの中に飛び込んでいるのにふんどしはしている、つまり隠すところは隠しているということです。動物はすべからく全裸です。
おそらくそこだけは「アダムがりんごを食べたから」と誤魔化すでしょう。
何かしら経済社会への反抗、文明社会・合理化社会への反抗のようなことをしたりはしますが、結局はふんどしをはいています。
「社会的な反抗」のようなものも、よくよく観察すると高校生、大学生時代などにアルバイトをして、性格の悪い店長にいびられたことをいつまでも引き摺っているというような感じだったりもします。
端的には「経済社会におけるヒエラルキーへのアンチ」の手段として「自然への回帰」という感じを利用しているにすぎず、その一端として「ふんどしをはいて泥の中に飛び込む」ということが自称アーティストの表現のようなものになっているという感じがしてなりません。
養子のうさぎとの対話
養子のうさぎは、人間と暮らしているので野生ではないですが、やはりうさぎです。
鼻筋や背中を撫でて気持ちよくなると歯軋りをしますが、今では撫でなくても、視線だけで遠隔歯軋りができるようになったほど、非言語コミュニケーション能力を培わせてくれた存在でもあります。ポイントは安心できるかどうかだそうです。
一羽の時は目を開けたまま眠りますが、一緒にいる時は目を閉じて眠るようになりました。
そんなうさぎと、非言語で対話をしていた時のことです。
食べることばかり考えているので、どうしてそんなに食べることしか考えられないのか、と聞いた所、「それ以外に何か必要なことはあるだろうか?」と回答が返ってきました。
食事を摂ることが出来ないほどに、体調に影響が出るほどに、何をそんなに考えてるのか疑問だということのようです。
なるほど。
そんな彼に大根の葉をあげておきました。
思い違いをしたがる 曙光 264
最終更新日: