思考によるあらゆる緊張と現象の展開

本来、安らぎが当然であり、結局、緊張がなければ安らぎが表に出てきます。

無駄な緊張というものは、思考により生じます。四苦八苦のほとんどは、これら思考による苦しみを示しています。そして突き詰めればすべてがこういった思考や意識による苦しみです。

これはすべてが苦しみであるという消極的なことを示すばかりではなく、苦を示すことで安らぎを示すものとなります。

イメージとしては、何かの形を線で描かなくても、それ以外の背景を塗りつぶしていけば、何かの形が浮かび上がってくる、というような感じです。

因果というものは一方通行のように見えて本来は双方向です。

「あれがある時これがあり、これがある時あれがある」

つまり、Aがある時Bがある、というものだけでなく、Bがある時Aがある、というものがセットになっています。

日常の緊張

さて、日常においては緊張をなんとか解消したいがために行動をしようとします。

それが「のどが渇いた。だから水を飲む」というものであれば、体の都合です。

しかし、例えば「髪をセットをしないまま外に出るのは恥ずかしい。だから髪をセットをする」という場合の緊張というものは、どうなのでしょうか。

「髪を整えてはならない」ということではありません。

ただ、その時に起こる緊張は、かなり余計なものがたくさんくっついています。

そして、そのタイプの緊張を取り除きたいがために、時間や労力やお金を使います。

すると、「時間や労力やお金が必要である」ということになっていきます。

すると、あらゆることに対して「これをしていては時間が足りなくなる」「あれをやっていては気力体力が持たなくなる」「そこにお金を使うと、あっちに使うお金が不足する」というような緊張が起こります。

意識が「不足」に向きます。

しかし極端に考えると、「災害が起こった」とか、「四の五の言っていられない個人的な緊急事態」といった場合には、髪の毛が整っていなくても、外に飛び出したりもするわけです。

もちろん奥には「言い訳」があるからです。

緊張を言い訳で打ち消すことができるという感じになっています。

こうした感じで、「緊張」を何かの行動や言い訳で解消しようとしているわけですが、根本的な緊張の要因となっている考え方にそれほどの正当性や合理性があるのでしょうか?

論理で考えた場合でも本当に突き詰めていくと「必要」というレベルの正当性は生まれません。

「ある空間、ある前提でのベター」というようなものがほとんどです。

ここで今一度因果の基本を考えてみましょう。

「あれがある時これがあり、これがある時あれがある」

つまり、緊張があるからこそ、緊張に関する現象を捉え、緊張するような現象があるからこそ緊張が起こる、ということになります。

それぞれ独立した現象

目の前に起こる現象は、それぞれ独立しています。

空を見上げているとスズメが飛んできた、次にカラスが飛んできた、という感じの時、「スズメを見たから次にカラスが飛んできた」と思うでしょうか?

そのことで、次にスズメが飛んできた時に、「この次にはカラスが飛んでくるだろう」と思ったりするでしょうか?

「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」

というのが本当のところです。

しかし、生存本能による恐怖心に囚われていると、「法則性を見つけて対処しなければならない」という思考が起こります。

この思考が「無駄な緊張」を生みます。

生存本能による緊張に重ね塗りをするように、無駄な緊張が乗っかってしまうという感じになります。

「緊張がない」を叶えるために緊張するという構造

思考による緊張は、「緊張がない」を叶えるために緊張するという構造になっています。

蓋を開けてみると「何をやっているのだろう?」というレベルの構造です。

これが「苦は自作自演」というものの本質です。

まず、安らぎ、安穏が本来の通常状態です。

しかしながら、一度何かしらの情報によって緊張が起こると、「緊張しないように〇〇をしなければならない」という自作自演の苦が生じます。

そしてそれに応じた現象が展開し、現実はそのように映るようになります。

一度安らぎのような状態になっても、

「この安らぎを継続させたい。継続させるためには…」

という緊張を自作します。

そうなると

「では、見える世界を『安らぎを継続させたい』という緊張を起こすような世界にしましょう」

という感じで、現象が展開します。

「止」の限界

思考や行動を止めると、理屈の上では緊張がなくなっていきますが、「緊張を無くすためには思考や行動をやめなければならない」という緊張が残っています。

これが「止」の限界です。根本解決にはなりません。

他者という虚像の都合

日常で考えれば、あらゆる緊張はたいてい他者という虚像の都合です。

俗っぽく言えば人の都合です。

国家という都合、家族の都合、職場の都合、地域の都合、目の前の人の「自己実現」という都合、それに対して「四無量心」の概念が悪い方に働きます。

「こういう態度をとるのは、慈悲とは逆行するのではないか?」

「相手を理解して手助けをしないということは慈悲ではないのではないか?」

というような脅迫です。

人によっては、そうした要求を「神の声」などと解釈して、「もう一段高い自分になるためのメッセージ」であると感じる場合もあります。

そう考えても苦が生じないのであれば、そう考えてもよいですが、たいていのそれら要求は、単なる「相手の都合」です。

考え方によっては、「四無量心」を利用した「悪魔の囁き」であるかもしれません。

ではどちらなのかというと、どちらでもあり、どちらでもありません。

その領域から脱するということは、行動として要求を受け入れることでも、拒絶することでもありません。

もし試練があるとすれば「それに反応して緊張してしまうこと」に対する試練です。

「ある観念と目の前の現象の解釈によって緊張が起こること」

が根本問題です。

それが人であれ、空間であれ何であれ「自分の気持ちを引っ張るもの」があり、それが緊張をもたらしているのであれば、問題はその対象となる人や空間そのものではなく、それに対する態度です。

「会社という空間が自分を緊張させる」といっても会社を壊したところで根本解決にはなりません。

「会社という空間に行くと緊張する」ということで不労所得を目指しても、根本問題は解決しません。投資家になったところで、市場の変動に緊張が生じますから。

それを個別具体的に挙げていくとキリがありません。

なので「緊張をもたらす一切の観念」が問題です。

なぜ、相手の都合や相手の幸せを考えているのだろう?

「なぜ、相手の都合や相手の幸せを考えているのだろう?」

ということをもう一度よく考え直す必要があります。

確かに相手の都合を叶えたり、相手が幸せになるということもいいことですが、その奥には「仲間はずれにされると生存可能性が下がる」といったものを筆頭に生存本能的な恐怖心があります。

さらに「相手の幸せや自己実現を通じて、自分の存在意義や自己評価を高める」という目的が潜んでいないでしょうか?

「相手の都合を考えられる人は素晴らしい。相手の幸せを考えられる人は素晴らしい」

ここに悪魔的な罠があります。

それはその通りな面がありますが、だからといって相手の都合や相手の幸せ、相手の自己実現「だけ」を考えろ、というような歪みが生じます。

「相手の都合を考えられる人は素晴らしい。相手の幸せを考えられる人は素晴らしい」

ということを実現するため、その一貫性を保つために何かしらの「緊張」があるのならば元も子もありません。

私は素晴らしい

「私は素晴らしい」

そういうとたいていは傲りのように見え、抵抗が生まれます。

しかし哲学的に観ると、この世界には自分しかいないと捉えることができます。

その視点で「私は素晴らしい」ということになると、誰かとの比較ではなく一元的に素晴らしいということになります。

「私は素晴らしいのだから、他人であるあなたは従え」「私は素晴らしいのだから、他人であるあなたは私を尊敬しろ」というようなことを迫ることも意図することも無くなります。

「私は素晴らしい、そしてこの世界も素晴らしい」

そのような視点と態度でいると緊張はありません。

思考が生み出した「無駄な緊張」を思考なり行動で打ち消したり、「対処しなくては」と、もがくことも無くなります。

「私は素晴らしい、そしてこの世界も素晴らしい」

それを「なぜそう言えるのか?」と説明を求めるような思考が起こった場合、その思考が苦の本丸です。

思考に対して思考で対抗しても、思考の空間に飲まれます。

現実に反応する時、現実によって緊張が起こるとき、その緊張は現実そのものがもたらしているのではなく、現実に反応する観念、妄想、歪んだ知覚が元で反応しているだけです。

結局、あらゆる無駄な緊張がなければそれで安らぎに戻ります。

それだけといえばそれだけです。

安らぎに沿った現実が見えてきます。

Category:philosophy 哲学

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