人の尊厳と可能性

本投稿で「雑記」400投稿目となりました。ということで、より身近に、そしてより深く雑記らしい雑記を書いていこうと思います。

最近「プロ意識が欠如している」というか、「もうちょっとしっかりしろよ」という人によく出くわします。

まあ職業というものをどういうふうに捉えているのかによりますが、たいてい「お金のため」とか「親に半ば強制されて」等々嫌々その仕事をしているという人ほどプロ意識が欠けています。

例えば先日会った「母(小脳出血後に身体障害者となりました)を担当する脳神経外科医(手術を担当した人ではありません)」は、何を聞いても「知りません」「往診の先生と相談してください」としか言いませんでした。

では、普段往診に来てもらわないといけないような母を無理に連れて診察に来た意味は何だったのでしょうか、ということになります。

予約表上「検査をするから」ということだったのですが、結局それもありませんでした。待ち時間、母は苦しさで叫んでいました。それならば、家族だけ呼び出せばいいじゃないかということになります。

個人的に、医者というものは、基本的に「患者の苦しみを取り除くこと」を念頭に置かなければならないと思っています。

来なくても解決するようなことを無理に呼び出し、そして平気で待たせるということは、患者のことなど何も考えていないと言わざるを得ません。

脳神経外科医としては世間的にプロなのかもしれませんが、医師として、医療に関わるものとしては失格だと思っています。

また、ケアマネジャーの方も、本来は利用できる制度を知らなかったり誤解していたりと、かなりのトラブル続きでした。

これは、本人たちの能力の問題というよりも、意識の問題だと思っています。

患者等々の他者の尊厳をどの程度まで尊重しているか、意識に上げているかという点です。

もちろんそこで「お金のため」「親に半ば強制されて」等々の理由でその職業についている人は、いかに自分の労力を省き、賃金を稼ぐということの効率性を高めるかということや権威性等々意識が向きがちです。

ここ数ヶ月の間で、医療や介護に関わる人達において、意識に差がありすぎるということを実感しました。

で、ある特定の状況や状態、症状等々は固定化された問題ではなく、ある関係性の状態が形成されているからこそ起こっているという感じになります。

人の尊厳を尊重しない意識があると、相手の可能性を狭め、数ある可能性の中で好ましくない状況を呼び起こすということです。

少し話は変わりますが、例えば大学受験を考えている高校生に対して、進路指導の先生がそれまでの成績を見て、志望校選びを狭めます。

これは高校生の尊厳を尊重してません。

まずもし「成績」という過去を根拠としているのであれば、その状況を作ったのは教員たちです。

自分たちの能力不足を棚に上げて妥当性から志望校を狭めているわけです。

「本人のやる気が…」

ということを言い訳にするのであれば、やる気が出るようにできなかった教員の責任です。高校生に責任転嫁をしてはいけません。

「あんたら、プロでしょ?」

というのが僕の感想です。

でもプロではないんですね。

その高校生が進みたい方向が正しい道です(もちろん世間の情報も騙されている場合もあります)。

それをそれまでの成績を根拠にして「無理だ」と判断するのは、必ず間違いです。

「今までのその子にはできなくても、未来のその子は達成する。今想像するところよりさらなる高みに達するだろう」

というが正解です。

そこで、教員たちに今一度振り返っていただきたいのが、もしそういう高校生がどこかの予備校に行って進路指導で判断された「適切な学校」より良い学校に行った場合、その進路指導やそれまでの成績は何だったのか、ということです。

本人のやる気を含めて「高校生に責任転嫁していた」ということになります。

ということであればプロ失格です。

辞めてください。

というのは普通の理屈だと思っています。

しかしそのようなことは日常茶飯事です。

予備校なり何なりで意識や学習方法が変わり、急激に学力が伸びるケースはよくあります。

これは教え方がうまいからだという点においても、本人のやる気等の意識を変えたという点においても、それまでの学校の教員に問題があったということになります。

「進路指導の判断はおかしかった」

ということです。

そして、潜在的にはそれだけ学力が伸びる能力を秘めていた、可能性はあったということです。

それを潰していたのは周りの大人だったということです。

本来は一回でもこのようなケースがあったのならば、学校の教員はプロ失格です。

ただ、そうなると世のほとんどの高校教員は辞めることになります。

相手を一人の人間として、あらゆる可能性を秘めた尊い存在であるということを意識に上げられたのであれば、そのようなことは起こりません。最初は能力が追いつかないかもしれませんが、必ず能力はついていきます。

さて、人の可能性についてですが、雑記らしく大きく舵を取って「現在の意識の向きによる未来の形成」について話を移しましょう。

因果律は過去に基づいて未来が決定されているのではなく、今の意識の向きが未来を作り、それが現在にやってきます。

「いやいや現在も未来も過去の延長だろう」というのが普通の感想です。

しかし、それは構造を分解すると「今の意識の向きが過去に基づいているから」という感じになります。

そして過去に基づいているにしても、「過去のどの部分に重要性をおいているか」という配置や順番も関係しています。

で、「今の意識の向き」は瞬間で変化します。

しかし通常は、「過去のどの部分に重要性をおいているか」という状態が狭い幅である程度固定化されています。

そこで、過去の記憶をなんとかしようとしてしまうわけです。

しかしながら、実は、「今の意識の向き」は、本来そうしたものに依存していません。もっと柔軟に変えることができます。

右を見ていたものが左を向くレベルで変えることができます。

世の中では「物理的に不可能だ」というようなことを言う人がたまにいます。

しかし、より深い物理の世界では空間を真空状態にしてもすぐに素粒子が生まれたりもするわけです。

それは空間において「オンになるかオフになるか」ということだけですから、そういう感じになっています。つまり物理で言えば無から有になったように見えますが、常に空であり、どちらも包括しているというが本当の姿です。

そしてそれは観察によって変化します。

ということは、どのように観察するかによって、すごく小さくて小さすぎる世界ではいかようにも変化するということです。

結局空間における「空」がどのような姿になるかということを普通に考えれば、全可能性を秘めているということになります。

ということで、何かしらで人に「無理だ」と言われた時、「はい自我による嘘が出ました」と思ってしまいます。

「もし無理じゃなかったら、そのプロの称号剥がさせてもらうけどどうする?」

というようなことを思っていたりします。

世の中では思考が現実化するとか、感情によって決まるとかそういう事を言う人がいます。

しかし思考はそれ自体では何も生み出しません。それらしいプロセスのパーツになる程度です。感情もただの反応です。

ということで、「今の意識の向き」として、何を観察すればよいのかということになります。

それは「自我では想像もできない最高の状態を観察する」というのが正解です。

それは構造上、裏を返せば「自我を手放せば自動的にそちらに向く」ということになります。

では手放し対象となる自我とは何なのかというと、と「自分と関係しているものの集まり」です。

空である全宇宙・全可能性の中から「自分と関係しているもの」という絞り込みがなされています。そこから「自分と関係しているもの」を外すというか空と統合すると、全宇宙、全可能性の中に「心」が移るというような感じです。

常に空である全宇宙・全可能性の中はいます。ただ、今の意識の向きによって絞り込みが行われ、「心がその状態をただ受け取っている」というような感じです。

Category:miscellaneous notes 雑記

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