「なんとかなる」の続編です。
それは「現実を無視する」です。
「現実が変わらないのであれば困る」ということになりますが、その意見は自我の意見です。現実を変えるために「なんとかなる」と思い込もうとして、安心したフリをするというのは誤りです。
「なんとかなる」と心底思って安心して意識の向きが明るくなったのに、現実を確認してまた騒ぐということを繰り返してはいけません。
なので、より厳密に言えば、「なんとかなる」の状態になったら、不安・恐怖を伴う思考や妄想を無視する、かつ、現実を無視するということです。
「現実を無視する」というと暴論のようですが、暴論ではありません。その証明をすることはできますが、勘違いを生むので今はやめておこうと思います。
現実をただ観察するというのであれば問題はありません。
ただ、確認して苦悩が起こるなら無視して今楽になる方を選んでください。
現実を確認して起こる苦悩、苦悩の元である思考や判断を無視するということです。
「現実を無視する」というのが暴論のように思えるのであれば、そんなふうに捉えてみてください。
もちろん現実を確認して嬉しい楽しい気持ちいいと感じるのであればそれを満喫してください。
現実を無視して何をすれば良いのか?
現実を無視するということは、何かしらの問題に対して何の対策、対応もしてはいけないということではありません。
もちろん何もしなくても構いません。
何もしない方が楽なのであれば、何もしないということです。
何かをした方が楽なのであれば、その何かを考えずに行うというような感じです。
つまり、その場その場で「心の安らぎにとって一番最適な選択をする」ということです。
それはそんなに難しいことではありません。
「尿意がしたら用を足す」という程度のことでも構いません。
その場で最も最適な選択であればそれで構いません。
自我の出る幕をなくす
「思考しないこと」だけを思考することで、暴れる思考を落ち着かせることもできます。
何かに没頭する、それは伝統的には「三昧(samādhi)」と呼ばれたりします。厳密な意味は少し異なりますが、つまり何かに没頭していれば「自我」は出てこれなくなります。
それは幾多の宗教方式で実践されています。祈りのようなもの、何かを唱える系、念仏三昧などはわかり易い例です。
「どうせならポジティブな方が良いだろう。意識の向きも明るくなるしな」というのが「ありがとう教」のようなものです。
「なんとかなる」で触れていた「『私ではどうにもならないので、とにかく最高の結果をください』と丸投げすること」も幾多の宗教に共通する、自我を手放すというやり方です。
そして幾多の宗教にある「三昧(ざんまい)のようなもの」も、何かに没頭することで、現実を無視して自我を手放すということをやっているわけです。
各宗教のやり方や構造を抽象化して共通項を抽出すると、そのような感じになります(こうしたことから、僕が一切の宗教に絡んでいないという理由が伝わるかもしれません。宗教が絡むと、その教義が執著を生みます)。
「なんとかなるなる、完璧完璧」
ということで態度としては、
「なんとかなるなる、完璧完璧」
ということです。
現実に起こることは無視してください。
その現実は、六根を通して五蘊により生じ、思考で判断したことです。
「現実さん。お疲れさん」
「現実さん、お疲れさまです」
という態度がいいですね。
「現実さん現実さん。あのね。心は完璧の中にいるの。お疲れ様でした」
ということです。
日常の現実が変化せず、日常の苦悩の思考が起こりそうになった時、
「それが何か?完璧なんですもの」
と再確認してください。
「いや、あなたは困っているはずだ!」
とアイツは叫んできますが、
「いや、私は完璧なんです!安らぎの中にいるんです!」
という態度を貫いてください。
「現実を見てみなさい。昨日と同じだ。日常が改善する兆しもない」
とアイツこと自我は現実さんとタッグで責めてきます。
しかしながら
「現実さん。お疲れさん」
です。
「何が現実さんお疲れさんだ。暴論じゃないか」
ということを思っているでしょう。
現実とは何か?
それは状態にしかすぎませんね。
より厳密な感じでいくと、物理的には最小単位がそれぞれの場所でオンかオフかというだけです。しかもそれが重なっていたりしてね。
じゃあ全状態、全ての可能性ってのは、常にありますね。
まあこのへんは哲学テーマで取り扱うことにします。
さて、こうしたものは、納得を得るために相手を説得しようとするようなものではありません。
あまり人に話すと
「現実を無視して良い根拠を述べよ」
と周りの人は言ってくるかもしれません。
これは自我の罠ですからね。
今と安心
先に、「なんとかなる」ということを思い出し、現実を無視してください。肩の荷を下して楽になってください。
荷を下したら「今が楽で安心」としましょうか。
哲学的には「今」しかないんですよ。
哲学的にはと言ったって、哲学領域、哲学空間じゃなくても、今しかないんです。
今が楽で安心なら、それでいいですね。
「未来はわからないじゃないか」
その未来が来たらまた肩の荷を下したら良いだけです。
未来の心配を今していますね。
誰がですか?
アイツこと自我がですね。
未来の心配を今して、今、心を苦しめていますね。
その未来が来ていないのに。
自我なんてその程度です。
そんな自我が判断した現実などに、心が振り回されている場合ではないんです。
最終更新日:
四向四果のようなものに入ったと感じてから無限ループを感じていましたが、少し楽になりました。どうもありがとうございます。
コメントどうもありがとうございます。
自我は「四向四果」という概念すら利用してきます。
「概念に当てはまっているか?」という思考・判断で引き戻そうとしてきます。
「楽」を大切にしてください。