風呂につかると気持ちがいい。体の汚れを落とすと不快が消える。すごくわかりやすいことです。これは非常にわかりやすいパターンなのですが、視点の違いで本質というものが見えてきます。
どうしても風呂につかるという「行為」に視点が置かれて、「なにかをする」ことがいいことなのだ、ということになりそうですが、既にカンのいい人は気づいていることでしょう。
「負荷が軽減する」という視点
それは「負荷が軽減する」という視点です。ゼロから何かが増えたわけではありません。つまり、不快な状態が「おかしい状態」で、通常に戻るというプロセスが、風呂に入る、ということになります。皮膚の感覚が「不快だった」のにそれが取れる、という構図ですね。
ということは本来「ここち良い状態」がデフォルトで、不快な状態が異常、ということになります。これは、水圧による負荷の軽減や、体の汚れがとれる、といったことだけではありません。
広大な景色に癒される、といったことも同様です。広大な景色が何かプラスしてくれるわけではなくて、圧迫していた空間の窮屈さが多少マシになるので解放されたような気分になるだけです。圧迫感がなければ別になんとも思いません。
目から入ってくる情報による空間の認識は、本来光データのはずです。光だけの問題で、広大な景色も狭い部屋も構図としては同じです。これを「窮屈だ」と解釈するのはアイツです。
また、掃除などがわかりやすいですが、別に何かをプラスしたわけではなく、たくさんあったホコリ等がなくなったから良い状態になっただけです。
本来ほとんどありえませんが、ホコリゼロの状態が一番いい状態で、ホコリがたくさんあるからなんとなく身体は不快だと感じてしまう。そのホコリを取り除くとなんとなく快適になります。何もプラスしていないどころか、何かを減らした状態です。
本来は明るい状態がデフォルト
やたらと夜の街などで遊んでいる人も、一見人生をエンジョイしているようですが、本当は心が暗い状態です。いくら楽しそうでも本質的には暗い状態です。暗くなかったら照らそうとすら思わない、つまり外からの刺激で穴埋めする必要がなくなります。
心が暗いというよりも、心に入ってくる認識パターンが全て暗いフィルターにかかっているからです。で、明るくするためにはということで遊びに行きますが、それはほかの刺激で暗さをごまかしているだけです。本来は明るい状態がデフォルトなのに、どういったわけかアイツによって「それは違うぞ」と制限されているような状態です。
これらは身体や脳によって常に束縛されている状態、ということになりますね。つまりアイツの奴隷です。身体はいいものだ、ということになりそうですが、身体のせいでいろいろとやりくりしなければなりません。
身体があるから不快感を感じてしまう
言ってしまえば身体があるから不快感を感じてしまう、ということになります。じゃあアイツを解放すれば風呂に入らなくてもいいのか、ということになりそうですが、別にそういうことではありません。感じてしまうことをやめることもできますが、別に風呂に入って汚れを落とせばいいだけです。
モテよう、強くなろう、などと思ううちは、何かをプラスしていこうと考えがちですが、それ自体が間違いです。無ければ無いほどいい。あくまでいろいろと制限されているのだ、ということにだけ気づければひとまずそれだけでいいでしょう。
無ければ無いほどいい、ということで、じゃあ手は片手だけのほうがいいのか、ということになりそうですが、身体というものを持ってしまっている以上、身体のためにそれはあってもいいのではないでしょうか。全部一斉になくなってくれればそれが一番いいのですが、どうもそういうわけにはいかない。じゃあ別にあってもいいですね。
もういっそ身体は他人だ、というくらいの気持ちでいるといいのではないでしょうか。その他人を慈悲の心で世話しているというような感覚で十分です。ただ、わがままを言ってきても別に聞き入れる必要はありません。言うだけで、何もできないのですから。
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