世の中には変人と呼ばれる人たちがいます。本当の変人は自分のことを普通であると思い、本当の変人ではない人は、自分のことを変人であると思っている、というようなことがよく言われたりします。
僕もどちらかと言うと変人の部類に入ると思いますが、自分の考えが普通であると思っている部分もありつつ「世間とのギャップがある場合もある」ということも思っているので、何とも言えません。
変人といえばこだわりが強いという面がありながら、そのこだわりが「理解不能」という感じになっています。それは理屈として理解不能なのか、それとも「そこまでのこだわり」という強度が理解不能なのかは様々です。
好感の持てる変人
ある料理人の方ですが「余り物、残り物で料理を作るということにかけてはスペシャリスト」ということで紹介されるようなシーンがありました。
その時に、その料理人の方は「余り物、残り物じゃねぇよ。お前らが余らせて残らせてんじゃねぇか。食材のせいにすんじゃねぇ!」とキレていました。そしてその方は変人扱いされていました。
「そんなことで怒らなくても」と思う人もいるかもしれませんが、その方の言うことは正しいですし、そうしたところに強く反応するということは好感が持てます。
そして、いわばぞんざいに扱われてしまった食材たちを「余らせた人が唸るものに変身させよう」という一種の慈悲を感じたりもするわけです。
人に例えるなら、社会の中で排除されてしまった人たちをヒーローにするというような感じです。すばらしいではないですか。
やはり料理人はそうでなくてはなりません。食材に対する感謝と調理に対する熱い思いがないとダメだと思います。それがあるなら、変人大歓迎です。
逃避としての「変人と思われたい」意識
しかし世の中には変人意識を逃避に利用する人たちがいます。自称芸術家がその代表例です。モテ意識もさることながら、一種の競争からの逃避という意図でそれに手を出す人たちもいます。
芸術、とりわけ美術の世界においては、何をやっても「個性」と言い張る逃げができます。
「比較しようがない」と言い逃れることができます。
一応芸術の世界でも「それで食べていけるのか」というような尺度があります。もちろんそれだけで評価するようなものではありませんが、一応そうしたことを目安にすることもできます。
しかし、「後世に売れた芸術家も、存命の時は理解されず全く売れなかった」というようなことを言うこともできます。
そして、変人であることを装い、様々な責任から逃げます。
蓋を開けてみると精神年齢が低く「人に頭を下げたりするのが怖くてできない」というだけだったりするのですが、「自分は違う世界に生きている」という変人意識でそうしたものから逃避します。
ここで、先ほどの料理人の方と何が違うかということを確認してみましょう。
それは自分のことしか見えていないという点です。
少なくとも料理人というものは、誰かのために料理を作ります。何かしらの追求という要素があり、誰かのためだけではありませんが、誰かのためにもなっていたりします。
自称芸術家は、誰のためにもならないものを作ります。誰かのためになるのならそれは売れます。
誰かのためを思って作るということだけが良しというわけではありませんが、自称芸術家のそれは「何かしらの哲学的な信念に沿ってイデアが云々」というわけでもないはずです。
「便器を題材に使うことが芸術」などと言っているうちは、芸術家に憧れる中2です。
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変人を装いつつもどこかしらモテようとしていたりします。
蓋を開けてみると「月と六ペンスのストリックランドという程でもない」という感じになっているはずです。
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モテをこじらせ、一時的にこうした変人意識を持ってみようと思う時もあると思いますが、延々とそれをやり続けるということは避けるべきだと思います。そして、そうしたものが続かないように、社会においてもはっきりとした冷めた目が形作られたほうが良いと思っています。
ドンウォリドンウォリドンウォリ
本物の変人にしても、某世界的バンドの配偶者であり自称芸術家の人が、「地上最低のライブ」と名高い何かのライブで「ドンウォリドンウォリドンウォリ」と連呼しているのが、何の娯楽にも芸術にもなっていないのは明らかです。
笑われているのであって、笑わせているのではありません。
そして誰のためにもなっていません。
「自分のことしか見えていない」
というわかりやすい例です。
笑ってあげて何かしらの価値を見出してあげているのは、それを客観視している側の人間です。
そんな人でも自称でなれるのが芸術の分野です。しかし、そう自称することはできますが、実際にそうであるかは何とも言えません。
それを芸術であると感じる人がいるのであればそれでいいですが、だからといって世間一般の評価を得るというようなことはありません。
本物の変人にしてもそうなのだから、変人意識を持って、変人のフリをてもモテるわけがありません。
まして、何をやっても「個性」ということで逃げているような人は、モテどころか社会において相手にすらされません。